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あたしは幽霊[後編]創作大賞2023応募作品

○記憶

真面目だったので月に遊べる金額を決めていた。
はずだったのに、毎月の伝票の桁が増えていくことに気づかないふりをしていた。
ハルトのところに通い始めて一年が経とうとしていた。毎週金曜のちょっとした楽しみのつもりだったのに生活が締め付けられ始めていた。
ボーナスは自分のために使わずに彼のオリジナルシャンパン代となっていた。もっと彼と話すためにはお金が必要で、バーのバイトも始めていた。副業を始めたことで最初より余裕ができ、会うたびに少しずつ伝票の金額が上がっていった。
キツネとも内容のない話で盛り上がるようになっていた。
いつもはカードのみでお金を下ろしていた銀行のATMに、通帳を挿入する。記帳、を押す。
ズゴゴゴとATMが唸る。
出てきた通帳を一度閉じ、次の人へ順番を譲る。外へ出てから駐輪場でそっと開く。また閉じる。
残高の欄にある現実。

現実に戻されたあたしは、体調不良だから今週はやめておくね、とアプリでメッセージを送る。
電話がかかってきたが、残業中だったので無視した。彼に会うためなら残業に気合が入ると思っていたが、何度も電話が鳴り集中できない。
周りが帰宅する流れに乗って、退勤ボタンを押した。お先です、と流れに乗らない会社人に声をかけて事務所を出た。
今日はホストクラブに寄らない、そのためにさっさと改札を通過する。だからかキャッチにも声をかけられなかった。
電車に乗りながらアプリを確認する。複数回の不在着信。
彼から電話が来ることは稀だった。
家に着いてかけ直したが出なかった。相手は仕事中だ。女の子の前で他の女の子の電話は取らない。

ハルトはちゃんとプロだ。
あたしが初めてホストクラブに行った時、あたしを楽しませることを考えてくれた。あの時間はあたしが求めている、仕事という現実から一線を引いてくれた時間だった。

金を注ぎ込めば注ぎ込むほど、見返りが欲しくなる。
ハルトがあたしをどう思っているのか実感が欲しい。
来週の金曜は病院に行くと偽って有給休暇を取得した。事故や病気でもないと休みを取りにくい会社なのだ。
ネットでクーポンを探して美容院を予約する。
「予約内容は、カラーですね。何色にします?」
「真っ黒にしてください。」
この日のあたしは白のワンピースを着ていた。

相変わらず忙しいハルトは、なかなかあたしのテーブルにやって来なかった。
相変わらず暇そうなキツネが下を向いたまま、やって来て座る。「イツモアリガトウネー。」乾杯大好き男として、グラスを鳴らす。あたしに棒読みを気づかれていないと思っているんだろう。キツネは顔を上げてから、一瞬怪訝な顔をした。
そして笑った。
「ホラーやるんや。思い切ったなあ」
「何年振りかの黒髪よ、鏡を見る度にびっくりする」
「ホラーやるって言ってから何も変わらなかったけど、準備してたんか。」ケタケタと笑う。「最近はボケッとした顔で来るから大丈夫かなと思っていたけど、そういうことか。ハルトさん、どんな反応するんやろうね、楽しみやね」
これがキツネの素なんだろう。
大人ぶった背伸びの仮面を外した学生らしい年相応の笑顔だった。
「お姫様は肌が白いから、真っ直ぐな黒髪で白いワンピースやと本当に幽霊みたい」キツネは目を細めた。「じゃあハルトさんを呼ぶために注文していい?」
あたしは頷く。ハルトを呼ぶためにシャンパンを注文する。「勝負に出る。百万のやつにして」

ハルトの様子を見たかったから、コールは無しにしてもらう。その店内にいるホストを、シャンパンを注文したテーブルに集め、リズムに乗せて感謝を歌うコールはそれなりに楽しくて好きだったけど、今日は感謝されるために注文はしていない。

「ごめんね、お待たせ」ハルト特有の嫌味のない半笑いで登場し、固まる。お水を飲みながらやってきたのか、手に持っていたグラスを落とす。
がしゃん。
「びっくりした、どうしたの急に、イメチェン!?」ハルトが笑いながらあたしの隣に座る。膝と膝がぶつかった。初めての距離感だった。
髪を触る。綺麗だねって笑う。
俺の好み何で知っているのって髪を触りながら笑う。

あ、気持ち悪い。

がしゃん、だった。グラスが割れるような関係が壊れる音。

あたしの表情からキツネも察したようだった。固まっている。
お金を遣わせるために相手に触れて褒めて惚れさせる。これはホストの営業方法として間違ってはいない。
でも、お客様は十人十色で、適切な金の遣わせ方があると思う。
それを今まで間違って来なかったじゃないか。
服装と髪型でこんなに変わるのか。

彼に惚れていた自覚はある。ホストだからと割り切っていたし、それ以上の関係は必要なかった。
学生時代の恋愛はそこそこに、社会人になってからは仕事に忙殺される日々で余裕がなかった。お金さえあれば綺麗な顔の男の人に相手をされて。お金を積めばさらに優しくしてくれる。
今まで縁がない世界だったけれど、恋愛以下のそこそこの距離感がちょうど良かった。
基本は一人で生きていきたいけれど、欲しい時にだけ誰かに認めてもらいたい、あたしが求めていた贅沢な距離感がここでは味わうことができた。

激しい後悔が襲う。
あたしは自分のスタイルを変えて何を見たかったんだろう。こんな気持ちになるなんて思っていなかった。
あたしへの好意を寄せる態度に、嬉しい気持ちになると思っていた。
態度を変えられたことに対して、彼へは怒りではなく悲しみが勝っっていた。
ハルトは今まであたしの何を見ていたんだろう。自分でも身勝手だと思う。

「シャンパン開けるよ?」

総額は計算していないが、預金残高で現実に引き戻される程、この一年でハルトには戻れない金額を注ぎ込んできた。
こうしてあたしは通っていたホストクラブをあっさりやめてしまえたのだった。


○現在

玄関を乱暴に開ける音で目を覚ました。ハルトの帰宅だった。
酔っているようで、あたしには声もかけずにリビングで水を飲んでから寝室へ消えた。

立ち上がることにも慣れてきた。
身体をドアに預けるようにして寝室を覗く。どこにいるのか分からない暗い部屋から穏やかな寝息だけ聞こえる。
ドアを静かに閉じてリビングへ戻る。
彼があたしのことを怯えているのか分からない。足を拘束されてはいるけれど、部屋の中を自由に動けるし、彼は部屋で熟睡している。
あたしも彼も中途半端だ。
カーテンを開けた。差し込む朝日が眩しい。ベランダのコンクリート壁で景色を見ることは叶わなかった。
膝立ちして、窓の鍵を開ける。二重ガラスの窓を開けるには力を要した。
風が涼しい。
数日は風呂に入っていない身体を、風が撫でる。まとわりつくような髪がベッタリと鬱陶しい。
網戸をずらす。這うようにして身体をベランダに出す。白いワンピースの裾が汚れるだろうけど、構わない。
コンクリート壁を擦るようにして立ち上がる。
裸足に小石が食い込む。
地上二十メートル程だろうか、周りの建物はここよりも低い。少し離れたところに繁華街が見える。朝だからか静かだった。
ベランダから見下げる。道に面していた。時折自動車が通るが、歩行者は見当たらない。彼が帰宅を予想していた午前六時くらいであるなら、これから通勤ラッシュを迎えるだろう。
この高さから人は死ねるのだろうか。
肘を伸ばしてみる。時折吹く風に後押しされるみたいだ。

飛び降りてしまおうか悩んだけどやめる。
ベランダから引きずるようにしてリビングへ戻る。
窓ガラスを閉める。

ごめんねハルト、あたしの勝ちだ。

インターフォンが鳴った。

床を這い、インターフォンのモニターに近づく。見知った顔がある。
狸顔のキツネです、と初めて会った日のことを思い出すくらいに変わらない顔だ。

もう一度鳴る。
あたしは通話ボタンを押してから、そのまま放置して寝室のドアへ近づき、開ける。
リビングから呼びかける。「お客様だよ」

「あ、ハルトさん? 朝早くにすみません、キツネです」
インターフォンに映るキツネは髪を触りながら申し訳なさそうな表情をしていた。
「今朝、忘れ物していきましたよね?」

何でキツネが、と小声で呟く。睡眠を邪魔されて機嫌が悪いようだった。
忘れ物なんてわざわざ届ける必要はない。ハルトは今日も出勤の予定だったはずだ。
あたしは隣で様子を見ていた。
彼の横顔を見上げる。
気づいた彼は、強張っていた。
「今、開ける」観念したかのような細い声だった。

「あ、あの、レナちゃんはここにいてね」
「大丈夫だよ、あたし幽霊なんでしょ? ハルト以外には聞こえないよ」
彼は目を見開く。「そういうことじゃなくて」
「ほら、お客様が待っているよ」
あたしは拘束されてない手で玄関の方向を指差す。

あたしは玄関とリビングの間にあるドアの横から、彼らの声を聞いていた。
「え、寂しい。ロック解いてくださいよ。」というキツネに従い、ロックを解除する音がした。
ドアを薄く開けて確認する。
玄関ドアの隙間から手が差し入れられて、強引に開けられる。キツネの他に、ジャケットを羽織った男性が二人いた。二人組のうち、背の高い方がドアを強引に開けさせたようだ。
ハルトは身を固くしていた。
二人組の男は何も言わない。
キツネはいつもの調子だった。「朝早くから本当にすみません。でもハルトさん、大事なものを忘れたでしょ?」
大事なもの、とハルトは繰り返す。
「今はこれ、失くしちゃいけないものだったんじゃないですか」
ネイビーの背景に花の絵が描かれた、あたしのスマートフォンだった。

「なあ、キツネ。この人たちは? お前の知り合いか?」
先輩であるハルトの問いを無視した。「あと、お姫様が来ていませんか?」
「来ては……」
答えを躊躇うのを見て、キツネが彼らを紹介する。「この人らは警察です。」
背が低い方が話す。「ここに囚われているらしい本人から、彼に助けを求めるメッセージが来ているため同行しました。」
キツネが声を上げる。「お姫様、いますよね?」
ありがとうキツネ。あたしがお願いした通りに動いてくれて。


『二週間ほど前に見つかった身元不明の遺体について、事態が急展開しました。身元不明だった遺体はカワサキレナさん二十五歳のものと断定されました。別の軟禁事件で逮捕されていた水商売の男性が、殺人及び死体遺棄の疑いで再逮捕されました。カワサキレナさんとの関係について、ハルカワ容疑者は「彼女は帰ってきている。帰ってきているのだから死んでいない」との発言を繰り返しており……』


○二日前

目を覚ました時、しくじったと思った。
拘束された手と足に気づかず起きあがろうとして、ソファから落ちた。床に背中から派手な音を立てて落ちたが、誰も出てこない真っ暗な部屋。
目が慣れて辺りを見回すと、知らない部屋だった。

身体を捩ってみても違和感はない。怪我や出血はないようだ。
ただ、頭痛がした。
しかしこれはよくある感覚。二日酔いだ。
何か薬を飲まされたか酒を飲まされすぎたか。要領を得ない会話にやけになり、酒を自ら煽ったのか。

身体を捩って気づく。昨晩と服装が違っていた。
ワンピースに着替えさせられているが、暴行されたような感じはない。
それに殺されていない。殺されていないまま拘束されている、その目的はなんだろう。
ハルトはあたしを殺さなかった。
彼はあたしのことを覚えていないようだったので、あたしにはまだ利用価値があると踏んだのだろうか。
そうなると、あたしの利用価値がなくなったら殺される。
結局レナが彼に殺されたのか分からなかったな、とそこで思い付く。
起きたのがあたしではなかったら。
殺したはずのレナが戻ってきたのだとしたら。

分からない。二日酔いが思考の邪魔をする。
彼が死後の世界を信じているのかどうか。
レナが死んだことを後悔していれば、その可能性があるかもしれない。
彼が戻ってくるまでに頭痛を治したい。
こんな状況で寝れるんだろうかとぼんやり思う。
でも、ここには屋根がある。
ガソリンオイルの臭いが充満するような荒れた倉庫ではないのだから。


◯現在

「そこで幽霊になりきろうなんて思う?」
検査入院から問題なく解放されたあたしは、キツネとチェーン店のコーヒーショップで向かい合わせに座っていた。キツネはアイスコーヒーのストローを回す。
「そこは賭けだった。ハルトがレナを殺したことを後悔していれば良いなと思った。」
「後悔?」
「レナがハルトに会ってから行方不明になったことは知っていたから、レナのいなくなった理由がハルトに関係しているだろうと予想はしていた。ハルトがレナを殺したのか、死なせたのか。」あたしは手首を撫でる。「そして、あたしを家にまで連れ込み、拘束までして、気を失っているあたしを殺していない。それで、彼の中で人を殺すことへのハードルは低くないことが分かったの。殺意を持ってレナを殺していて、今まで通りの生活を続けようとしているなら、自分のことを探る厄介な相手なんて、この世から消したくなると思う。」

「うーん、それにしても疑問だらけ。まず、どうやってハルトさんの部屋に入った? ハルトさんが運び込むには人目もあるんじゃないか。」
「キツネのおかげで、ホストクラブへ直接乗り込む必要がなくなった。ハルトから声を掛けられたの。僕のことを探しているって本当ですかって。」
「ああ、レナちゃんのことでハルトさんのことを探している人がおるらしいですよって言ったら目をカッと見開いていたな。お姫様が急に来なくなるなんてよくあるから俺は大して気にしていなかったんだけど……。お店に借金をしていた子がいなくなるなら大問題だけど、レナちゃんはお店に借金もなかったし、飽きたんかなあ、くらいの気持ちやったから。」変に混ざる方言が、あたしとの距離感を決めかねている。
「そこで、キツネがあたしの特徴を挙げてくれた上に、飲み屋を指定してくれたから、ハルトはあたしをすんなり見つかることができた。そして声を掛けて、あたしの動向と目的を知るために同じテーブルにつく。そして、そのあとはあたしを酔い潰した。というか、多分勝手に潰れた。」
「そんな簡単に酔い潰れるもんか?」
あたしは頭を抱える動作をする。「それは誤算だったよ。その日にハルトの方から現れると予想していなくて、今後どうしようってやけ酒していたようなものだったから。久しぶりの再会で、変な緊張もしたしね。薬を盛られた可能性もあるとは思うけど」
お酒に薬を混ぜられた可能性もあるが、睡眠薬の可能性は低いと思っている。睡眠薬をアルコールで飲むには、記憶障害など大きな副作用が出る可能性がある。大事になることは避けたかったはずだ。殺したくないのならあたしが倒れた時のデメリットが大きい。睡眠薬が使われていないだろうというのはあたしの展望だ。
後から分かった話だが、彼はレナが行方不明となった日以降に、不眠を理由に睡眠薬を処方されていた。

続ける。
「部屋に運んだのは、人目があるからこそ、だよ。あたしを介抱するように運んだんだと思う。」飲み屋も夜のお店もある繁華街ではよく見かける光景だ。肩を回して、時々は大丈夫か、なんて声を掛けながら歩く。飲み屋から遠い道路で下を向いた女の子と肩を組んでいると怪しまれるだろうが、繁華街では、カップルの男性が飲みすぎた女性を支えているように見えるだろう。繁華街から電車やバスでもなく、徒歩の距離で来れるからこそ。
「ただ、女の子を連れ込むようのセカンドハウスだったら、働いているホストクラブにも情報がなかったかもしれない。本当に住んでいる自宅だったから、キツネもあたしの居場所が分かった。いまだに逃げ出せない軟禁状態にいたかもしれない。」

一人であの部屋にいた時のことを思い出す。
テレビも鏡もなかったあの部屋で、唯一自身を写せると思った窓ガラスで自分の姿が確認できるかと思ったが、中も外も真っ暗だから自分の姿も映らなかった。自分の髪色を確かめたかったのだ。
長い黒髪を見つけた時、あたしが気絶している間に髪を染められたのかと。
検査入院の際にようやく自分の姿を確認することができた。オリーブ色の暗めにカラーリングした髪色そのままで安心したのだった。

黒髪への執着はただの自分の好みだろうと思う。
ホストクラブに通う女の子には、自分を誰かに必要として欲しいと感じる女性が多い。自分がお金を貢ぐことで担当のホストから感謝される図式だ。その図式が壊れてしまうと、自分が求めていたものが得られず病みやすいのだ。あたしも病む一歩手前で、たまたま訪れたホストクラブへ通っていた。健康的でナチュラルなヘアスタイルとワンピースが安心できるパーツだったのかもしれない。
あるいは自分好みにすることで征服の象徴か。キツネの予想では前者らしい。
「あたしは自分のものだ、お客様だって周りに示すためなのかもなと思うよ。あたしが黒髪にした時に接客方法が大きく変わったのは、接客方法をパターン化している節もあったと思う。このスタイルの女の子は俺のお客様で、色恋すれば良い、金を遣わせることができるというような。他の予想では、名前と顔を覚えられないからかなとも思った。キツネだって、このパターンじゃない? あたしの名前、いつまで経っても呼んでくれないし」
「ホストしているとはいえ、本業はアホ学生やから」一度、目を逸らせてから真っ直ぐに目を合わせてキツネは言う。「綺麗なお姉さんの名前を呼ぶには緊張するんですよね、マドカさん」
円と書いてマドカと読む。そんなあたしはメッセージアプリで自分の名前を『⚪︎』で登録している。

レナが死んでしまったが捕まるのも嫌だった。彼がレナを死なせてしまったのは事故だったから。
「事故と言い切れる理由は?」
「会いにきてくれて嬉しい、とか彼の行動が殺意を持っていたとは思えなかった。事情を知っていそうなあたしを殺しただろうと思う。この時はレナを殺したとは思えなかった。」
幽霊って設定をすんなり信じたのも後悔からだと思う。自らの意思で殺したレナが復活したのなら恐怖を感じるだろうが、不慮に死なせてしまったレナが復活したのなら信じる、幽霊に対する都合の良い解釈だ。
現にレナは死んでいる。
部屋に落ちていた黒髪のDNA鑑定の結果から、カワサキレナのものだと判断された。
ハルトは、言い争いになった際にレナがテーブルの角に頭をぶつけたと話しているらしい。リビングの敷物として使用していたカーペットに彼女を包み、なかったことにした。深夜に自分の車で山へ行き遺棄した。ほとんど毎日出勤していたハルトが休んだため、珍しいなとお店の代表の印象に残っていた。
「俺ほど不真面目だったら休みなんて印象に残らなかったんでしょうに、皮肉なもんですね。ハルトさんにとって、レナさんの事故は、彼にとっての失敗だったんやろうか。なかった事にしてしまえば、何も変わらないって、そう思ったから、そうしてしまったんですかね」

あたしを軟禁した時点で詰んだようなものだ。
素性の知らない奴が、俺のことを探している。怖かったと思う。
あたしはマドカではありませんよ、レナですよ。あなたが後悔して会いたがっていたレナですよ、そんな安易な設定に縋るくらいに。
心の中では疑っていたから、悪霊などの理由を付けて拘束を外さなかった。
でも本当にレナだったら、死んでしまった人が自分に会いにきていたのだったら、辛い思いはさせたくない。だけど、本当にレナなのか信じ切ることができない。そんな彼がとった中途半端な行為が手か足かどちらかの拘束だ。
人の手首足首に結束バンドで拘束するのも手慣れているような印象はなかった。
レナを殺したのならば、酔っ払ったか寝たかしているレナに何があっても動けないように拘束をしただろうと考えた。

悪霊だと言う割に、怯え方が中途半端だったし、殺す機会はいくらでもあったけれど、彼はあたしを殺さなかった。
軟禁状態だったことも、これ以上罪を犯したくないという意識があったのだろう。と、信じたい。

また、女の子を呼ぶための部屋だとしたら、鏡がないのはおかしい。人目に付く仕事をしているハルトの部屋に鏡がないのもおかしい気がするが、近寄らなかった浴槽にはあったのかも知れない。
つまりあたしが軟禁されていたのはセカンドハウスではなく、ハルトの本当に住んでいる部屋だったのだ。
ものがなく片付いた部屋だった。結束バンドがあったのも納得できる。
テレビなどがなかったので一般的な部屋よりはコード類が少なかったとも思うが。

「それに助けを求めるメール、どうやったんです?」
あたしからキツネへ送った警察と踏み込むきっかけになったメールだ。
「アプリでもないし、珍しいなって思いました。メールアドレスを教えていたとはいえ、気づいていなかったら終わりやし。」ああそうか、と気付く。「予約送信か」
「そう、毎日予約の日時を更新してレナの行方を探していたの。時間を更新して、探して、一日が終わる。ここ一週間はアルバイトも休みを取っていたから」
「なるほど、SNSやと予約投稿できますけど、個人宛のツールだとメールくらいしか予約送信は難しいのか。SNSやと、埋もれますしね。」
「そうだ、あたしのスマートフォンを盗むのはなるほどと思ったよ。キツネがここへ来る口実までは考えていなかったから」
「正直無視してしまおうかとも一瞬は思いましたよ。ややこしいことに巻き込まれそうやから。でもメールにお姫様スマートフォンのGPSへのログインパスワードが書いてあったんで、確認してみたらホストクラブを指していて。俺がお姫様を救う王子様になるしかないか、って。あとは神のみぞ知るから走り抜けるしかなかったです」

また遊びに来てくださいよ、とキツネは伝票を手にした。
「いいよ、ここはあたしが払うから」
彼はやさしい。最後まで、「ハルトさんはマドカさんのことを覚えていなかったんですね」と指摘しなかった。


ホストクラブ通いを止めてから、仕事をすぐに辞めた。精神的な支障が身体に出るようになったのだ。
具体的には、眠れない。集中できない。上司の話が入ってこない。身体を起こせない。
ホストクラブがあたしのバランスを取るための重りだったのだ。
無断欠勤した翌日に、退職の意思を電話で伝えた。ホストクラブという夜遊びを、予算を決めて遊ぶくらい真面目なあたしは、迷惑をかけるくらいならと会社を辞めることをすぐに決断した。
退職の意思を伝えた時、上司は社内の人間関係と労働環境について謝っていた。でも、五年も続けることができたあたしの身体は丈夫な方だ。
実家に戻ってからそんなことを考えていた。

バーの仕事も辞めようと思っていたが、マスターの心遣いがありがたく、休養期間を取ってからアルバイトを復帰した。実家から通っている。
仕事と夜遊びで友達との縁も切れていたあたしは、メッセージアプリを立ち上げることなんてほとんどなくなっていた。
バーへの通勤電車が遅延している時、スマートフォンの中身を整理していた。メッセージアプリを立ち上げてから、キツネから連絡が来ていたことに気づいた。
『お姫様、戻れないところにいるんですか』
キツネらしい言葉選びだ。
まさかあたしが行方不明側になるとは。
電話をかけるとキツネがワンコールで出る。「もしもし?」


レナはバーの常連さんだった。
明るいカールの流行の薄い前髪が似合う彼女はガールズバーで働いていた。友達にも同僚にも恋人のことは話せないけど、ここには他人しかいないからと恋人のことを赤裸々に嬉々として話していた。こんな人でこんな素敵なことをしてくれて、こんな嬉しいことを言ってくれるの。
日を重ねるごとに、彼女の姿が変わっていくことに気づく。
彼女が仕事を風俗に変えた頃、やっと彼女の言う恋人の名前を聞くことができた。
彼女は笑って言った。「その時に、ハルトくんがね」
あたしはどこまで口を出すべきか分からなかった。彼女とあたしは他人なのだ。
「でも彼、あたしを部屋に上げてくれないの。もうすぐハルトくんの誕生日だし、押しかけてやろうと思っていて、」ふふ、と笑う彼女は本当に嬉しそうだった。
過去の自分を重ねて、愛おしく思う。
彼女は彼をくん付けで呼ぶ。そういう些細なことを覚えておいて良かった。

彼女がお店に現れなくなった。
バーのアルバイトをするようになって、夜に営業するお店の常連は入れ替わりが激しいことを知った。風俗で働き出したのだし、夜は来れないよなと思っていた。寂しいと思ったがこのお店ではよくあること。気にしていたらキリがない。

出勤のために白シャツに着替えていたら、母から声をかけられる。「少し前のあんたもこんな格好してなかった?」
夕方のニュース映像を見て戦慄した。森に捨てられていた身元不明遺体のニュース。
情報提供のために公開された格好はハルトの好きな女性の格好だった。

そこからあたしの行動は早かった。
あたしから初めて彼女へアプリでメッセージを送る。返信も既読もなかった。
他人だからと話してくれたレナの内緒話が正しければ、彼の家へ行った後に姿を消している。
ハルトが好きな格好をしたお客様は行方不明になる。その行方不明が死だとしたら。

レナから聞いたハルトとのエピソードを話す前に、ハルトはあたしをレナだと信じていた。
聞くことができなかった。
レナの振りをして、あたしのこと好き? って。
彼と数日過ごしてみて、彼の冷徹な部分を見た。
彼にとってレナは特別なお客様だったけど、恋人ではなかった。
彼は都合の良いことを信じたくなる素直な人間だ。
だからこそ、好きな人が死んでしまったら遺棄はしないと思う。仕事を優先しないと思う。
でも、これらは聞けなかったから全部予想だ。あたしの中で、彼はこうであって欲しいという願望である。


キツネには話していないことがある。
レナの行方を探しながらハルトに出会った時、殺されてもいいと思っていた。
だから自分でわかっている酒の許容量を超えて飲んだのだ。
でも彼は、あたしのことなんて覚えていなかった。
彼の姿を見た時、少しだけあたしの名前を呼んでくれることを期待した。
「僕のことを探しているって本当ですか?」と薄気味悪いものを見るような正直な彼の目。

あたしがハルトの元へ通った数年。あたしの中では今までの価値観が一転する大きな出会いだったけれど、彼の中ではなかったことになっていた。
彼にとって、あたしはやっぱり幽霊だった。


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