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あたしは幽霊[前編]創作大賞2023応募作品

[あらすじ]
あたしは深夜に見覚えのない一室で目が覚める。
その部屋の住人は、何もうまくいかなかった頃に出会った男性だった。
彼の振る舞いを見て、彼が殺したことに気付くが、証拠がない。
そして、彼はあたしのことを悪霊であると指摘する。
激しい頭痛の中、彼との日々を思い出す。彼はお金を貢がなければ会えない夜の世界の人で、彼には噂があった。彼のお客様は、同じような姿をするようになり行方不明となるらしい。彼の気を引きたかったあたしはとある決意をしていた。
なぜあたしは幽霊になりこの部屋にいるのだろう。小さな部屋の中で思考を巡らせる。

『今朝未明、身元不明の遺体が見つかりました。身元が分かっておらず特定を急いでいます。着用していた衣服を公開し、情報提供を呼びかけています』


○現在

目を覚ます。カーテンの隙間から細い光が差し込んでいた。
身体を起こそうとしても起き上がることが出来なかった。全身が筋肉痛のようだ。ついでに頭が響くように痛い。無理に身体を動かそうとすると視界が歪んだ。
窓を見遣る。外は暗いようだった。
なぜ、あたしは、ここにいるのか。
差し込む僅かな月光を頼りに、観察する。目の前には低いテーブル。後ろには2人掛けだろうかソファが置いてある。ここはリビングだろうか。その間に横たわっているあたし。広い部屋ではないように思う。マンションの一室だろうか。
怖いのは、見覚えがない部屋であること。
フローリングの床がひんやりしている。よじるようにして頬を床に付けた。冷たくて、気持ちがいい。
少しずつ冷静になりながらもう戻れないことを思う。
離れたところにドアが見える。今なら逃げ出せるだろうか。それとも、ここから出られないんだろうか。
目を瞑る。無かった事にしたい。
ああ、そうなんだ。あたしは幽霊。消えるみたいに思考が飛んだ。

次に気が付いた時、カーテンの隙間から光が漏れていた。恐らく、早朝。
同じ部屋で朝を迎えたらしい。
冷えたフローリングがあたしの熱を奪い続けている。光が痛い。身体をよじり、光から逸れる。
隙間から今日は天気がいいらしいことを教えてくれる。太陽が高く昇る季節。
カーテンの開かないこの部屋で今日から過ごすことになるのだろうか。
こういうのは、地縛霊って言うんだっけ。
耳を澄ますと、空調の機械音がした。ドアの奥から。換気扇? おそらく、この部屋には契約者がいる。つまり、誰かが住んでいるということ。
じっとしていたが、他に何かが動くような音は聞こえなかった。住人は部屋を出たのだろうか。あたしのことになんて、気づかずに。あたしも気づかずに。それともまだ寝ているのか。
あたしは何者だっけ。この部屋の住人との関係は、何と表されるのだろう。
テーブル脚の隅に線が見えた。目が慣れたとはいえ、暗いのでよく見えない。身体を捩り近付く。長い黒髪だ。
まだ頭は痛い。全ての記憶が曖昧だった。
でも、覚えている。


○記憶

彼と初めて会ったのは、何もうまくいかなかった頃だ。
辞めたいけれど生活のために辞められない会社。地元から離れて就職したから友達もいない。頼れる先輩もいない。無視してくるお局様が使っているポットの水は、誰が足しているのだろうね。
退勤ボタンを押してからメールが来ていることに気付いたが、そのままシャットダウンした。
新卒入社で入って五年になる。専門的な知識が必要な技術系の会社にはまだまだ古い残業万歳体制が残っていて、残業代ありきの給料がないと生活できない。
この会社で一生を過ごすのだろうか。会社と家の往復で、趣味もないので休日は寝て過ごす。というか、休日は起きてられない。会社以外では死んでいるような生活だった。でも、死にたくはない。
今日は金曜日。
陽気そうな人たちが前の方に見えたので、少し遠回りして駅を目指すことにした。この時間なら電車が空いていることだけ嬉しい。
退勤時間を見てこなかったが、星も見えないくらいに空は真っ暗だった。

会社の最寄駅前には噴水があり、そこは恋人たちの待ち合わせによく使われている。
待ち合わせをしている大勢の中に、知った顔を見つける。学生の頃に好きだった人。でもあたしのことを裏で暗いと言っていた人。
最悪な気分ってこんな簡単になるんですか。
その日のあたしには余裕がなかった。今、ひとりぼっちのあの部屋に帰ったら死ぬ。
「あ、お姉さん。仕事帰り?」
呼吸が浅くなっていることに気づけないまま、掛けられた声に頷いてしまう。ナンパか?
ナンパって相手の服装や雰囲気で決めるらしい。学生の頃の友達だったあの子なら、声を掛けられたことに怒るんだろうな。とどうでもいいこと思い出すくらい、思考の飛躍が止まらないほど疲れていた。上手く微笑むことができる。「なんですか?」
「初回なら安く美味しく楽しくお酒飲めるけど、どう?」
手っ取り早く酔える方法、お金をかけずに。

お酒を煽りながらの初対面だったから、正直ほとんど覚えていない。
覚えているのは仄かな甘い香り。
激しいクラブミュージックの中、挨拶された声が聞き取れなかったことは覚えている。
でも二度と会うことはないだろうと聞き返さなかった。あたしってこんなに上手く愛想笑いできるんだなとグラスに口を付けた。
死ぬって思うほど疲れていたのに、初めましての相手と談笑している。あたしって意外とコミュニケーション取れるのか。それとも相手が上手いのか。乖離してあたしを離れたところから見ているような、浮ついているのはお酒だけのせいじゃないだろう。
何事も体験してみなきゃ分からないことってあるんだなと、財布から二千円を出す。
もう来ないつもりだった。
「待って、楽しんでないでしょ」と赤茶の髪をした男が言った。
「楽しいです。金曜夜に酔えて笑えてハッピーですよ。」おちゃらけた気持ちをアピールしたくて手のひらを揺らす。
「自暴自棄になっていない?」片眉が下がった真剣な顔だった。
なっているから、目を逸らす。「なってません。」
ねえ、と袖裾を軽く引っ張られる。「じゃあ、また来てくれる?」首を傾げたあざとい動作に、あたしの奥が掴まれた。あたしってこんな単純だったっけ。
声を出せずに頷くと、彼も嬉しそうに頷いた。
「また来てくれる時、ちゃんと空けておくから教えてよ。」メッセージアプリのQRコードを差し出される。
社会人になってから友達と連絡を取ることが減っていたあたしのスマートフォンは静かだ。ネイビーに花柄のお気に入りのスマートフォンカバーは、一目惚れして選んだものだった。そんなスマートフォンが時折揺れる。唯一と言っていい通知音、彼から届くメッセージが嬉しかった。
ホストクラブにハマる女性の気持ちが分かる気がする。
群衆のひとりだったあたしを、あたしとして接してくれる承認欲求。


○現在

また意識が飛んでいた。カーテンの隙間からの光がちらついた。
あたしずっとこのままでいるわけにはいかない。まだ頭痛はするが、意識があるのかないのか分からない状態を続けると、ずっと意識を取り戻せなくなることがあるんじゃないか。
そんな心細い気持ちになっていた。
行動をしないと。
そのために、考えないと。
部屋の間取りを頭の中で書き出そうとした時に音がした。
ソファ背面側のキッチン方面から水を出す音と止める音。誰かがいる。息は潜めた方が良い?
幽霊だから関係ないか、と息をゆっくり吸いなおす。
住人だろうか、帰ってきたのか、起きたのか、どんな人物なのか。リビングの大きさから一人暮らし用の部屋だと推測しているが、果たして。
手が自由になっていた。足は痺れたような感覚でまだ上手く動かせない。
音を立てることが怖くて、ゆっくりと両手を広げて床に付く。上体をゆっくり起こす。幽霊なのに手の概念があるのは、幽霊になったばかりだから、とかだろうか。
ソファの背面が邪魔で見えなかった。
動けない。どうしたらキッチン側へ回れるのか、考えていると相手が察したのかソファ背面から顔を出した。
目が合う。
知っている顔だ。
ガラスの割れる音がした。目が合った相手が、先ほど水を入れたガラスのコップを落としたらしい。
彼の顔は引き攣っているようだった。あたしが見えているんだね。
言葉通り、幽霊を見たかのような顔で驚く表情。初めて見る表情。

記憶の端に引っかかる。
この人は、過去にもガラスのグラスを壊していたことがあった。
「ハルトくん」久しぶりの発声は掠れていた。「見えるのね、あたしのこと」
彼があたしに教えてくれたメッセージアプリの登録名はハルトだった。
「あたしといた時にも、グラスを壊していたよね」賭けだった。
ハルくんと呼ばれた彼は瞬きをする。
あたしは続ける。「いつだったっけ。ほら、二回目に会った時かな。あたしが鏡月を飲んでいた時。
彼は何も言わない。訝しげにこちらを見ているだけ。
「あ、あの、」あたしは何とか間を埋める。「あたしがあなたを呼びたくて百万だったかな、使った時に、」たどたどしくなる。「あの、驚いて、うるさい店内でも分かるくらいにガラスがガシャーンと、音がして」
「そうか」彼が目を逸らさないまま言う。「もしかして、レナなのか?」
それは彼がハルトだという肯定。
あたしは頷く。
落としたグラスはそのままで、彼が近寄る。あたしの目の前にしゃがむ。
「戻ってきてくれたのか」そしてそのままあたしを抱きしめる。
戻ってきてくれたのか?
彼の手は震えている。
ねえ、あたしに会いたかった? とは言えなくて、「幽霊ってひとりぼっちなんだと思っていた。」だから、あたしと目を合わせてくれてありがとう。
あたしも彼の背に手を回す。
あたしには分かったよ。
あなたが殺したんでしょう。


○記憶

はい、と頷いて扉を開けてもらう。席に案内される頃には緊張が解けていた。
前回は自暴自棄になってここへ来た。今回は、彼へ会いに来た。あたしが元々この空間に場違いであることは分かっていた。
今日はいつもより濃いめに化粧をして、赤いリップも引いた。まばゆい照明に責められているようで、下を向いて待っていた。
「来てくれたの!」と彼の声が上からして、見上げる。逆光だった。
「メッセージが、しつこかったから」言い訳。
彼が左隣に座る。左腿が触れる。強張る左頬。
「あはは、しつこくしてごめん。初回の時には言わなかったけど、前は酔いたくてここに来たんでしょ? 初回は安いし入りやすいよね。話を聞いて、毎日が大変なんだろうなって思ったから、大丈夫かなって心配していた。」屈託のない笑顔で笑うのだった。
この顔が見たくてもう一度ここへ来た。前回見たよりもずっと眩しそうに笑う。
彼と出会ったのはホストクラブだった。初回は二時間二千円で飲み放題、二回目以降はドリンクによって値段が変わる。飲むために頼むわけではないお酒。
「ありがとう、俺に会いたいと思ってくれたの?」
「そんなわけ……」ないじゃんって言いかけて止まる。ここでは外とは別のあたしになるのだ。「そうに決まっているでしょ。」慣れてない口調に、自分で笑いそうになる。でも嫌な気分じゃない。
楽しい時間はすぐに過ぎるのだと思い知る。
黒服と呼ばれるのだろう会社員のような清潔感を感じる黒ベストの男性がハルトの横に来る。ハルトさんお時間です。
ハルトはまたねとこの席に着いた時と同じ笑顔で手を振った。
うん、と軽く手を振り返す。それで終わってくれればよかったのに。
「寂しそうな顔しないでよ、また来て、ね? 今度はゆっくり話そうよ」
営業トークに引っかかっているのは分かる。
でも、この笑顔をあたしに向けてくれるのは、あたしが寂しいことに気づいてくれるのはこの人しかいないんだ。
ヘルプで着いた名前を覚える気もないホストに話す。「ハルトはいくらくらいあれば隣にいてくれるの」
自分の生活費以外には使い道がないお金だ。自分だけは大丈夫だって思い込んでいる。

「ありがとう!」彼があたしの頭を撫でる。スキンシップにも慣れてきた。「これで今月もナンバー入りが現実的になった。良かった」
独り言のようにそう呟く時、彼はあたしを見ていない。
彼は特別好成績なホストではない。でもダメなものほど愛おしい、と言うほどダメなわけでもない。
あたしはあなたのために頑張ったんだよ。そう思うけど、言わない。
彼が口を開く。
騒々しい周りの音で、彼の声が聞こえなかった。「何?」
「いつも頑張ってくれていること、知っているから。」
絶妙なタイミングで言うのだから、ずるい。甘い言葉をかけてくれるのも彼の仕事の内だ。わかっているけれど。
次に使える金額を頭で計算している。


○現在

あたしは上半身だけ起こした姿のまま、彼が割れたグラスを片付けるのを見ていた。
「まさか、レナちゃんだったとはびっくり」ホストクラブに立つ時の声とは違う。「幽霊になって会いに来てくれたってことなのかな」
声が震えているようだった。
「幽霊。うん、そう幽霊になっちゃったんだよね」
あたしはやっぱり幽霊なんだ。透けない手をひらひらと振る。鮮明には思い出せない過去を辿る。
幽霊?
「ハルトくん」名前を呼ぶとき、少し緊張した。「あたしのことは見えるんだよね? 霊感があるの?」
透けない手。
彼は答える。「見えるよ。」それだけだった。

腹部に違和感がある。
手で腹をさすると彼が聞く。「トイレ?」
確かにこれは尿意だ。幽霊がトイレへ行くなんておかしくはないか。「え、でもあたしって幽霊で」
「レナちゃんは、幽霊なの?」彼は続ける。「レナちゃんは、その人の体に取り憑いているだけだと思うよ。よく見て、体があるでしょう」
あたしが分かっていることを突きつける。
足は結束バンドで縛られていた。昨晩は手首も結束バンドで縛られて、身体の自由が全くなかったが、今朝は手が動かせるようになっていた。彼が今朝、起きた時に外したという事か。
レナちゃんは悪霊なんじゃないのと冷たく言う。
彼はあたしが誰に取り憑いていると思って、そんなことを言うのだろう。泣かない。
この身体が誰のものだなんて野暮なことは聞かない。

「手、出して。」
なんで、と聞こうとする前に腕を掴まれる。彼の手は冷たい。
あたしは言われた通りに、手首を揃えて彼へ向けた。結束バンドで拘束される。
その代わりに、足の結束バンドをハサミで切る。
「これでトイレ行けるよね? 漏らされても困るし。手は使えないけど自動洗浄だしなんとかなるよね。」
どうして腕を縛るのか聞けそうになかった。
彼に逆らったらこのまま殺されるかもしれない。警報のような頭痛がひどく、従うしかなかった。

彼があたしの動かせない手の塊を引いて、トイレの場所を教えてくれる。
彼がトイレのドアを閉めると、トイレの蓋が自動的に開いた。ウィーン、と鈍く短い機会音に飛び上がりそうになるが、まずはこの事態の方にびびれよと心の中で自分に突っ込んだ。
大丈夫。
自分に突っ込む余裕がある。
深呼吸する。これからどうなるのか。
便座に腰掛ける。便座が温かい。考える。彼はあたしを悪霊なのかと聞いた。
悪霊と呼ぶなら、彼は呪い殺されるようなことをした自覚があるのだろう。ただ、彼は殺したことを口にしてはいない。

恨まれることをした覚えはあるが、殺していないのか。

確証がない。

それに、あたしはなぜここにいる?
彼のセカンドハウスだろうか。彼がホストの仕事ついでに女の子を連れ込むために借りていた部屋。あたしは来たことがなかったけれど、生活感のなさからそうなのだろうか。つい最近借りたから生活感がまだないだけなのか。どっちにしろ、金が彼を変えたのか。
となると。
考えなくてはいけない。今まで逃げてきたことを考えなきゃ。
彼が知っている人物ではもうなくなっている可能性も踏まえて。
殺したのか、殺していないのか。殺したのならどうやって。証拠を。
そして、あたしがここにいる理由。
縛られた手ではトイレットペーパーを上手く巻き取れない。拭くのは諦めて足を伸ばしたり手の塊を使ってみたりしてショーツを履く。脱ぐ方が簡単だった。
身体を捩ってレバーを捻り、トイレのドアを押し開ける。
トイレの斜め前が、玄関だった。
ここからの逃走が頭によぎる。が、ロックがかかっている。この手では開けられない。裸足では走りきれない。
覚悟を決めて部屋に戻る。襲われるのなら、もうとっくに襲われているはずだ。その点に関しては心配しなくていいはずだと。
リビングに戻ると、彼がガラスの破片を拾っていた。腕を見ても震えているのかは分からない。
立っているのもおかしいか、とソファに座る。
閉められたカーテンの向こうから雨が降り出す音が聞こえた。

言葉を選ぶ。
「どうしてあたしはここへ戻ってきたのかなあ」
彼は近寄らない。キッチンの向こう側から返事をする。「うーん、少し前から本当はここにいたかもね。幽体だけでふわふわしていたなら、会いたくても見えなかったのかも。取り憑いたおかげでレナちゃんと認識できるようになったってことかな」
幽霊のあたしがこの体について聞かないことを、彼は何と思っているのだろう。

殺されるならそれでも、と一瞬考えて、やめる。
やけになりやすいことがあたしの短所だ。
どうしたいのか考えなきゃいけない。


○記憶

狸顔のキツネです、とおちゃらけた調子で隣に座った青年は学費を稼ぐためにホストクラブで働いているとのことだった。
キツネはハルトのヘルプだった。あたしの担当であるハルトが他のテーブルに呼ばれている間、姫と呼ばれるお客様の相手をする。
徐々に人気が出てきたハルトはいつもあたしの席にいてくれるわけには行かなくなった。
「また今日もキツネ?」
「はーいごめんね、乾杯しよ」でグラスを鳴らす。
ハルトに会いに来ているので、いい気はしない。でも、ハルトをこのテーブルに呼ぶためには、高額なお酒を注文する必要がある。初めてこのお店に来た二ヶ月前より、ずっと精神が安定したあたしはお金の使い所をちゃんと見極めて、楽しめる範囲でホストを楽しんでいた。数万円をちょこちょこ使っていく細客。
あたしの次の来店へ繋げるには、少しはハルトがこのテーブルに来てくれるはず、そう思えば別によかった。
それに、キツネも「良い奴」だった。
ハルトには愚痴を言う気になれないが、キツネといるときは主に愚痴を話す。ここ最近のお局にされた仕打ちを語った後、キツネが話題を転換した。
「ハルトさんのお姫様って変わった人多いけど、そんなことないよね」
「そうなの?」
「ハルトさんの姫って、見た目で分かるんだ」
あたしは暗め茶髪のショートカットに縮毛矯正をかけていた。仕事帰りなので、他の客と比べると少しカッチリしたオフィスカジュアルだった。ここへ来る時の服装は黒が多い。スカートは履かないのでこの日も黒のスキニージーンズを履いていた。いつもと違うのはリップをバーガンディーにして化粧が濃いことくらいだった。
ふうん、と思ってハルトが着いているテーブルを探す。
見つける。女の子は重たそうな黒いロングヘアでゆるくカーブを描いている。服装は白を基調としたワンピース。ハルトの話に頷き、猫背のまま背中を揺らすように笑っていた。
あたしは着ることがなさそうな逆のスタイルだった。
「あの人みたいな雰囲気の人が多いの?」
キツネは頷く。「ハルトさんは不思議な魅力があるんだろうね、太客はみんな似たような見た目になっていく。何か言われたことない?」
ハルトにたくさんお金を使う太客は、ハルトのお願いで彼の好きな見た目に近づいていくんだろうか。
まだ二ヶ月だし、お金をたくさん使うわけでもないあたしは、こうなってほしいと言うようなお願いはされたことない。「あたしは細客だから」
「太い客だろうが細い客だろうが、毎週来てくれてありがとうね、はい乾杯。」乾杯好きな男とグラスを鳴らす。
「あたしはハルトをナンバーワンにしたくて来てるわけじゃないから。これはハルトにはナイショだけど。」と前置きして「確かに夜の世界って金額は高いけど、いい気分転換になるから毎週の楽しみにしているだけ。」
そう言って思う。ハルトじゃなくても良かったんだろうか。あの全部がどうでも良くなった夜、出会っていたのがハルトでなかったら。
ホストクラブには通わずに薄闇を歩き続けていただろう。
ハルトだからハマってたんだと思う。仕事の意味を見つけて、生活にメリハリがついた。
無理に金を使わせようと煽ったりすることもない。彼は煽ることであたしがお金を使うとは思ってないだろうし、その通りだった。
「冷静だね」
「熱しにくく冷めているの。」
「でもそのままでいてほしいかも」
「細客なのに?」
「あの人のお姫様って移り変わりが激しいんだよね。」とキツネが言った。「見た目が同じになって、いなくなる」
あたしは笑う。「ホラーじゃないんだから」
「分かんないよ、ホラーかも」キツネが目を細める。

キツネの話によると、ハルトは黒髪への異様な執着があるらしい。
「黒髪というか、俺たちの前を通過していく子みたいな」
あたしとキツネのいるテーブルの前を通過していく女性は、長い黒髪に白いワンピースだった。あのスタイル。丁重に案内されて、別のテーブルの席に着くのが見えた。
「別に明言されてはいないけど、初めてあのスタイルで来た子にはハルトさんを付けるくらいにこの店では有名」
他のテーブルはコールやら叫ぶくらいの大きな声で盛り上がっている中、ここのテーブルは静かだった。
「お姫様」とあたしを呼ぶ。「お姫様は冷静やからいいけど、気をつけて。ここは夜遊びするところ。生活とか人生懸けてのめり込んだら帰れんくなる。」方言が心地よい。「ハルトさんのお姫様だけじゃないんやけど、よくあるのはお金を貢ぐためにお仕事を風俗に変えてしまう、お金絡みで問題を起こして逮捕、とか。単純に行方不明ってのもあるから怖いけど、ホストも毎日が戦いだからね、いなくなった人のことを考えている時間なんて全然なくて。」
ホストにはまって借金、風俗なんて話はよく聞く。
まあ、と一呼吸置いて続ける。「俺がホストを本業としてやっていないから甘っちょろいことを言えるだけかもね。ハルトさんはホスト一筋やから、お金を稼ぐために何だってするかも」
ホスト一筋ではないキツネがそれを言うのだ。生活が一転してしまうのは、夜の世界にありがちなんだろう。

「こら、キツネ。俺の大事な姫なんだよ。盛り上がってない?」静かな席にハルトの登場である。
ハルト自身の薄茶髪は地毛らしい。
「ハルト!」自分でも分かるくらいに声色が明るい。「大丈夫だよ、キツネは自分の意見をちゃんと言ってくれるからついつい真剣に聞いちゃうの」
ハルトはふふ、と笑う。「お酒飲んでる?」
「うん、高いのは飲めないけど」こんなことを言ってしまうのはハルトへの貢献になっていないことを自覚しているから。度数も値段も低いもの。「来月末にボーナスが入るから、それで初めて高いのに挑戦しようかなと思って。ハルトのオススメがあったら教えてね。今月は先月より頑張るよ」
「そうなの、オススメか。考えておくね」
簡単な会話を交わした後、ハルトが他のテーブルへ呼ばれてしまう。また連絡するねとは微笑む彼を見てからスマートフォンの方ばかり見てしまう。

「ハルトさんはしばらく来ないと思うけど、帰る?」
キツネもホストなら、あたしという客から金を引っ張りなさいよ。と思うけど引っ張られても困るので言わない。
ここへ来ても、ハルトに会える時間は短くなって来ている。
「ねえ、ホラーを試してみようか」あたしだってハルトに執着されたい気持ちがないわけではない。


○現在

膝丈のワンピースに尿が飛んでいないか気になる。もどかしい気持ちで窓の方を見る。カーテンは閉まったままだった。
今度は足首を縛り、手首を解放してもらう。お昼ご飯を食べるためだった。身体は正直である。
「雨は止まないね」ローテーブルに近づくためフローリングに座る。
カレーも白米も電子レンジで温めるだけの簡単なものだったが、おいしい、と呟くと彼が微笑んだ。
「料理って言えるほどのものでもないのに。レナちゃんはいつも喜んでくれるね」
「ハルトが作ってくれるってことが嬉しいの。」
「ありがとう。レナちゃんが会いたくて、僕のところに来てくれたんだよね。こんな奇跡ってあるんだね」
彼があたしを抱きしめている。頭が真っ白になった。
思わず緊張した。
「もう二度と会えないと思った」語尾が涙声になる。
ゆっくりと彼の背へ手を回した。背中が震えている。
「あたしも、会いたかった。会いたかったから、ここへ来たんだよ」

彼が悪意を持って殺したと思っていた。しかし彼の言葉が偽りだと思えない。
死んだのは事故だろうか。

頭痛は止まない。

足首が縛られたままだったので、手を使って腰を上げ、ソファに腰掛けた。
彼がゴミを捨てる音を聞く。
リビングにはテレビも時計もなかった。あたしもスマートフォンを持っていなかったから情報を得る手段がなかった。
何時だろう。
「レナちゃんは、生前の記憶ってどこまで覚えているの?」
「生前の記憶?」
「この部屋で目を覚ます前、どこにいたかってこと」言いながら彼が隣に座る。
「曖昧だけど、ハルトくんのことは覚えているよ。あたしはホストクラブに通っていて、そこでハルトくんと知り合った。田舎町の小さなホストクラブだから、他の人にはないハルトくんの華やかさに一目惚れした。でも、それだけ。ハルトくんのことしか覚えていない。どこにいたかは知らない。」
どうして死んだのかは知らない。

「レナちゃんに会えたことは嬉しいけど、まだ完全には信用できなくて」彼はつぶやく様に言う。「レナちゃんが悪霊じゃないって証明は出来ないでしょ」
「悪霊じゃない、と思うけど」
「霊に会ったことなんてないから分からないけど、真っ当な霊は人に取り憑いたりしないんじゃいかな。真っ当な霊っていうのもおかしいけど。」彼は乾いた笑いを添える。
「そうかな、そうだよね」誰かの身体に取り憑いている。「そんなの悪霊だよね」
「いや、レナちゃんが悪霊だって決めつけているわけではないんだけど」
頬が濡れるのを感じた。あたしは泣いている。
好きな人に疑われて。
もう一度、彼に抱きしめられる。今度は背中が震えていなかった。彼はどんな表情をしているのだろう。

リビングのローテーブルに彼はペットボトルの緑茶を置いた。「十六時には出かけるから、これ飲んで待っててね」
今が何時なのか分からなかったが、彼は慌ただしく出かけるための準備を始めていた。
ホストへの出勤か。ヘアメイクをしてから出勤なのだろう。
あたしが彼へ会いにいく時にはまだ出勤していないこともあるくらい、遅めの出勤だった気がするが、とそこで思い直す。
今日はあたしがいる。
人間に取り憑いた悪霊だと思われている身だ。
彼はあたしの前でスマートフォンを操作していない。テレビも本もないこの部屋で時間を潰すことも難しいと判断して早めの出勤なのかもしれない。
私の両手を解放した状況では寝ることも難しいのだろう。
しかし、それはあたしとしても好都合だ。
恐らく彼が出かける前に何らかの対策が取られるかもしれないが、これはあたしがここにいる理由を探るチャンスだ。

ピンチはチャンスとも言われるが、チャンスはピンチにもなる。
雨音が消えていた。止んだみたいだ。
彼が隣の部屋から小さなショルダーバックを掛けて現れる。リビングの窓へ近寄り、カーテンの隙間から鍵がかかっていることを確認しながら言う。
「ごめんね、トイレへ行きたかったら這いつくばって行ってね。その辺で漏らしてもらってもいいよ。帰ったら拭くから」室内で放し飼いの猫や犬のような扱いだ。背筋を冷たい指でなぞられたような違和感。この人は尊厳を奪うようなことを言える人だったんだ。「ただ、帰りは何時になるか分からない。最近は朝の六時過ぎかな。」
彼は白いマグカップで水道水を飲む。
忙しいんだね。
彼を見上げる。
「……ちゃんと帰ってくる?」思わず聞いてしまう。戻ってこなかったら、この部屋でひとり。
セカンドハウスらしいこの部屋の食料は少ないだろうし、立ち上がることは許されない拘束。このまま彼が帰ってこなかったら。
怯えた目をしていたんだろうあたしの頭を、彼がゆっくりと撫でた。
「もちろん、帰ってくる」目を合わせて、力強く頷いてくれる。「こういう仕事をしているからこそ、普段は嘘を吐かないって決めている。怖がりでごめんね。拘束は解かない。」
彼は立ち上がり、玄関の方へ歩く。電気のスイッチに触れる。カーテンが閉められた部屋は、真っ暗になる。
「頭が痛いんでしょ、ゆっくりソファで寝ててね」
気づいていたのか。

ひとり、残される。

鍵を外から閉められると寂しいんだと知った。
意識的に深呼吸する。これはチャンスなんだ。

ソファでうたた寝していた。
彼といる時は緊張していたみたいだ。
ソファから落ちかけて、目を覚ます。彼はもちろんいない。
頭痛が消えていた。ようやく、物事をちゃんと考えられそうだ。
寝返りを打つように身体を捻り、床に落ちる。着地失敗。
天井を見上げて考える。あたしは何でここにいるんだろうな。
ローテーブルとソファの間に寝転ぶと、この部屋で最初に目を覚ました時のことを思い出す。あの時は手も足も拘束されていた。
ダイニングテーブルがないこの部屋では、ローテーブルに食事を置いて、ソファに座って食べるのだろう。天井を見たまま思う。あたしがソファから落ちる時、どこにもぶつからなかった。ローテーブルとソファの間に人が一人、余裕で横になれるほどの間隔がある。食事をするには遠いと思う。床に座って食べるには、この床は固い。あたしが来る前は何か敷物があったのではないだろうか。

匍匐前進のようにして窓に近寄った。カーテンを開けると、外は真っ暗だった。何もないベランダの方を見るために、カーテンを開いた。
窓ガラスには、自分の姿は映らない。


▼後編

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