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【美術ブックリスト】戸田裕介編著『ぺらぺらの彫刻』
まえがきでは、彫刻の実制作者と彫刻研究家が彫刻についての課題研究を目的に集まり、それぞれが論考を執筆したこと、そうしてできた本書が目指すのは彫刻への理解を深めることであると宣言される。
第1章「人体像の表面の向こうになにをみるか」は美術史家・田中修二氏が、ローマにあるパロック時代の彫刻や朝倉文夫、朝倉響子、最後にリカちゃん人形の例を出し、触覚の観点から彫刻の「表面」を論じる。どうやら近代的な彫刻観では彫刻表現の内面性が重視されてきたが、内面ではなく表面に着目する可能性について言及したいようだ、というところで本文が終わる。
第2章「量塊を見つめなおす」は戸田裕介氏が、彫刻家は多視点ならぬ多感覚を通じて彫刻を作り上げることを過剰ともいえる引用を利用して論述する。
第3章「すべての彫刻には空洞がある」で袴田京太朗氏は、はじめて「被覆の彫刻」というテーマを考察することを宣言し、彫刻の「空洞」について前二者と違って自身の言葉で思考する。袴田氏は彫刻の多くが中空であるのに内なる力や存在感が平然と語られることに「後ろめたさ」を感じ、その矛盾を克服する可能性をジェフ・クーンズの初期作品やゴンザレス=トレスの作品に見い出す。
第4章「彫刻作品の表層について」は鞍掛純一氏による、木造家屋を加工した自身の作品についての論考。第5章は鏡面彫刻の系譜。第6章は80年代のポストモダン思想での表面概念の系譜。第7章はフェルトを素材とした庄司達の布彫刻の意義。第8章は漫画家・谷岡ヤスジのマンガにプランクーシらアヴァンギャルドの彫刻家と近い表現があるとの主張。第9章は古代ギリシアから現代までの彫刻を振り返り、表面を金色や鏡面加工して輝かせることで彫刻が非物質な存在にかえられたことを主張している。
ここまでが概観。
ここからが感想。
まず彫刻家の人たちの文章が、過去の学者や芸術家の引用が多くしかも整理されていないため主張を分かりにくくしている。例外は、引用を最小限にして自身の体験と制作を意図を述べた袴田氏。
書き出しから彫刻の何が問題なのか、テーマが提示されていないため、いったい何が論じられるのかが分からない。現代彫刻が置かれた何らかの問題なのか、彫刻全般に何らかの危機が到来しているのか、主題も方向性も提示されない。
実は「被覆としての彫刻」が共同研究のタイトルであり、量塊を基調とする造形性とは異なる、被覆する表面によって成立する彫刻を検証するのがテーマであった。しかしそれが公式には終章で初めて明示されるため、読者は何についての論述であるか分からないまま読み進めることになる。彫刻の表面と空洞がテーマであるならば、タイトルにそう書くか、せめて副題にして欲しかった。そもそも「被覆としての彫刻」を論じるのならば、それを建築論で提起したゼムパーとロースの概念から始めてほしい。前書きや第一章で提示しておいてもよかった。
これまで彫刻とくに現代彫刻を主題とした論考が少なかったことは確か。それを解決したいという意図は非常によく分かるだけに、もっと分かりやすい方法が求められているとも思う。さらなる研究に期待する。
3630円、A5判、320ページ、武蔵野美術大学出版局
[もくじ]
まえがき[戸田裕介]
第1章 人体像の表面の向こうになにをみるか[田中修二]
第2章 量塊を見つめなおす[戸田裕介]
第3章 すべての彫刻には空洞がある[袴田京太朗]
第4章 彫刻作品の表層について[鞍掛純一]
第5章 ピカピカの彫刻―戦後日本の鏡面彫刻[石崎 尚]
第6章 一九八〇年代と表面―召喚される「表面の存在論」[森 啓輔]
第7章 庄司達の布―建築と身体の間に[藤井 匡]
第8章 彫刻のためのエクササイズ=谷岡ヤスジを誤読する [伊藤 誠]
第9章 金色と鏡―古代ギリシア彫刻からブランクーシへ[松本 隆]
終章 「ぺらぺらの彫刻」とは何だったのか[藤井 匡]
あとがき[戸田裕介]
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