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大学と電話ボックスと我が子

毎年この季節は、とある人の命日の月。

この国の最初の電話ボックスを作った方。

阪神大震災の年。
高校は野球ばっかりやってて、なんとか滑り込んで大学へ。
最初は単なる一学生と教授。
実習やプレゼンで何となく話が進み、だんだんなじんで来てそのうち入り浸り。他愛もない話や、生真面目なクリエイティブな話や、ちょっと色恋沙汰な話も少々。学生の視線に立ってもらえるような感じがフィットしたのでしょう。毎週どころか、2〜3日に一度のペースで呑みor夜ごはん。だいたいは2人でカウンターor小さいテーブル。

他の教授+先輩達10人くらいと行った金曜の飲み屋にて、一番下は自分と同級生との2人だけ。盛り上がってきた中で、先生がみなさんに一言。

「この子達二人は、確かに不器用だけど、こういう場には必死に食らいついてくる」

池田駅の居酒屋で呉春呑んだり、金曜日によく行ってた中華料理屋のピータン美味しかったなぁ。先生がよく頂いていた、おふくろ定食は実は食べたことなかったです。

先生も単身赴任。自分も実家ではあったものの、大学やバイトで家にはほとんどおらず。なんとなく生活のサイクルも合ったんでしょう。
大学の環境にはいろいろ不満や思うところもありましたが、先生の師事で過ごした6年間は、それまでなんとなく進んで来た一学生の道標を確実に変えました。
実習で自分の図面だけパスできずに、ずーっとやり直し。
天橋立近くのワークショップで、延々とシャベルで穴掘り。
卒業制作展の締切と委員会の仕事に追われて、1週間家帰らず。
関西の学生卒業生制作展と激務平行で、5kgほど痩せました。
それでも、計画性は一番ほめてくれましたね。

社会人になってまもない頃、近況報告がてら一緒に喫茶店行った時、初めてコーヒー代出させてもらいました。

新卒一年目で自分自身が病に倒れ、抗がん剤が始まる直前、行きつけだった居酒屋の閉店日に参上。たくさんの仲間の中で、先生は別段何も語らず。後日、病院に送って頂いた一通の文は毎年この日に読み返します。

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でもまさか、それから10年後に自分と同じ病で旅に出ないでください。

先生がいなくなって、もう10年近く。
あれからずっと「これからは自分で考えなさい」と言われてる気がしています。

先生の名前から「宏」の一字を頂いた息子は、小学校に通い始めました。
毎日てんやわんやですが、元気に暮らしています。
生まれる直前に報告へ行きましたが、以来なかなか行けずに申し訳ないです。もう少しだけ世間が落ち着いたら、京都から息子を連れて、久しぶりに会いに行きます。

先生が若い時に活躍されていたこの街で、また明日から今の仲間とやってやります。
世界はまだまだ続きます。

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