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命日

今日は実母の命日だった。
母が亡くなったのは、3月19日。
お彼岸である。
私は実母が嫌いだったが
実母の命日は忘れようがない。
お彼岸を忘れるわけはないのだから。

義母は先日亡くなった。
3月11日、震災の日。
忘れようがない。

義母も実母も
いつ亡くなってもおかしくないと
ドクターに言われてた。
だから私は母達は日を選んで逝ったのだと感じる。

父親が亡くなったのは5月。
時々忘れそうになる。

私が大好きだった祖母が亡くなったのは12月30日。
大好きだったのに祖母の命日を
私はいつも忘れてしまってる。
忙しすぎる日で思い出せないでいる。

はてさて私が逝くのはいつにしよう?
なんて考える。
強く願っていれば叶うよな気がするのだ。

私は誕生日というものを
祝ってもらったことがない。
記憶にあるかぎりではあるが。

子供の頃から私の誕生日はなかった。
ずっとそうやって過ごしてたから、
誕生日は特別な日ではなく自分でも忘れてることが多かった。
だから自分の年はよく間違えてた。
ちゃんと西暦で計算しないとわからなかった。

子供でなくても誕生日を祝ってもらえるって、
知ったのは大人になってからだった。
だから誕生日に
お誕生日ケーキを食べさせてもらえるのは
いまだにちょっとした私の夢である。
出来ればホールで食べたいと思うから、
糖尿病の私にはかなわぬ夢となっている。

だから誕生日を覚えてもらえてない私は、
命日くらいは覚えてほしいと思っていた。
けれどそんなのどうでもいいかとも思い始めた。
亡くなっているのだからこだわらなくてもって。

大嫌いな実母と一緒のお墓には入りたくないから、
散骨もありかなとも考えてる。
お墓に入れる骨壺を空っぽにして、
庭の木の下にでも埋めてもらおうかと。

色々考えて河津桜の木の下がいいかなと考えたりする。
私の骨が桜の栄養になって綺麗に咲いて散る。
骨だけじゃあ無理かね?
そんなこと考えてる、お彼岸の日である。



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