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田原本で弥生の痕跡を見る(J limited 01 / Tokina AT-X270AF Pro)

 また未踏自治体シリーズ。
 今週ちょっと平日半ばに出張いったりして少し疲れておるので、手近なところにしよう、と思ったんですけれど、手近なとこってもう田原本町と上牧町くらい。
 で、上牧町ってその……町域の大部分がニュータウン住宅地で、住民向けのショッピングモールにラスパ西大和があって、それで何を見に行けばいいのかいまだ見つけられなくって……。
 今回は田原本町ですね。はい。

旧石見村

 近鉄橿原線の石見駅にきました。ここはまだ三宅町。
 石見は、駅から東に流れる寺川あたりにかけて古くからあった村の名前。明治22年に三宅村に合併した。

 石見鏡作神社で村の産土神・石凝姥命を祀っている。八咫鏡を作ったのが石凝姥命なのだけど、そうすると、このあたりに鏡を作る技術者がいたのかな。もう数キロ南の田原本町にも鏡作神社があるので、けっこう産業として大きく広いエリアで行われてたんだろうか。
 ともあれ、エンジニアの神様ということでありがたく拝んでおこう。

 また、奈良県では奈良時代の条里制の痕跡を残す意味合いで、条理の境界に「条里の森」として緑地を作ってるそう。で、この神社がそれにあたると。ここは城下郡路西十三条二里六坪東南門だったとのこと。

 すぐ近くに猿田彦を祀る白髭神社がある。見た感じ元々境内摂社だったぽいけど、今は公民館が建って分断されてる感じ。

 なぜだか、お社のすぐ裏に物見櫓みたいなのがあるんだけど、なんだろう。神社じゃなくて公民館の付帯設備だろうか。
 このあたりは奈良盆地のひたすら平坦なところのど真ん中で、何かあっても最寄りの高いところは馬見丘陵か龍王山なので、必要性はわかる。

 石見集落の南側に、石見新池というため池があって、周囲がちょっと公園になっている。
 新池というくらいだからそんなに古くないのかな。まあ旧池が奈良時代で新池が室町時代だったりしても奈良だからおかしくもないが。

 池のすぐ南に、石見遺跡という案内板が立っていた。
 独特の形の埴輪が見つかって、今でもこういう形の埴輪や木製品が「石見型盾」と呼ばれている。これ盾じゃなくて鉾とか儀仗じゃないの、という説が出てるらしいが。
 その石見遺跡はこの看板から200m南東にあった全長35m以上の前方後円墳だ、というのだが、今はどう見ても住宅地になっている。

今里の浜

 寺川を東に渡ると、なんか橋の下にめちゃくちゃでかい鯉がうじゃうじゃいて、なんか私のとこに集まってきた。私は鯉にウケる顔してるのか。

 川を渡ると、今どき珍しく完全に神仏習合というか、左手に杵築神社、右手に融通念仏宗の正福寺が並び立っている。
 今里では、毎年6月の第一日曜日(つまり私が行った翌日)に「蛇巻」という男子成人の節句行事があるそう。18mの蛇綱を新しい麦藁で作って、14歳前後の男の子が頭をかつぎ、他の男衆で胴を抱えて村中の家々におめでとうと祝福して回るそう。人と出くわすと誰彼構わず蛇綱で巻き込む。
 最後にこの杵築神社の榎の大木に蛇綱を巻きつけるそう。

 またこのへんは今里浜といわれ、田原本の水運を担う港があって、物資の集積地になっていたそう。まあ寺川がもはや水運に全く使われてないので、今となっては江戸時代の絵図があるくらいの痕跡しかないとか。

唐古・鍵遺跡

 さて、田原本の名所である唐古・鍵遺跡にきてみると、広大な原っぱであった。公園になったのは2018年なので、けっこう新しい。

 唐古・鍵遺跡は弥生時代の集落遺跡で、現地の掲示では「2200年前の」という表現が見られるのでそうなんだろう。

 最大のもので83cmもあるでっかい柱を使った大型の建物の跡が、柱を建て直す形で表現されている。手前の◯はなんだろう。現地の説明を見逃したかな……。

 かなり大規模な集落だったみたいだけど、外には環濠がある。しかも多重になってて、時代を思えば大規模に工事されている。

 公園事務所がそのまま、建物遺構の保存施設にもなっている。掘立柱の穴がそのまま。一部の穴から柱そのものも発掘されていて、それを炭素年代測定して2200年前の数字が出てるとのこと。

 公園事務所前には、この味わい深い手作りオブジェがいっぱい。
 好きな惣菜発表ドラゴンに見えてタイムリー。

 公園北西に道の駅レスティ唐古・鍵があり、ローカルクリーチャーゆるキャラのタワラモトンが鎮座している。

 三輪そうめん小西のふしと、大倉本家「山廃仕込み 金鼓」という日本酒を買ってきた。野菜も安くて、キャベツ1玉280円は買いたくなったんだけど、まだ歩くから重たい。

 公園に戻ると、唐古池の隅にこんな楼閣が建っている。
 別に楼閣自体の遺跡が見つかってるわけじゃないんだけれど、発掘された土器にこういう建物が描かれている。

唐古鍵考古学ミュージアム(撮影自由)収蔵品

 これを再現して建てたもの。
 まあこの渦巻きが本当にそういう飾りがついてたんだろうか、とか色々思いもするんだけれど。

 それから、このちょっと東の柳本に海軍の飛行場があった関係で、唐古池の堤防部分に高射砲台が置かれていた。台座らしいコンクリが残っている。

 唐古池の近くから石器が見つかると1901年に高橋健自という考古学者が気づいて、この広大かつ弥生時代全般に渡って様々な遺物が見つかる遺跡の発見につながった。ゆえに唐古池は唐古鍵遺跡の母。
 まあでも唐古池って江戸時代後期に掘られたんだけれど。まだせいぜい300年の歴史しかない。奈良ではひよっこ。

 囚われの兎。

唐古・鍵考古学ミュージアム

 遺跡からは2キロくらいかな、南に離れたところに考古学ミュージアムがあるので、そちらへとてくてく歩いていく。
 写真は途中で見かけた事故車。自然に還ってはいないけど飲み込まれ始めてはいる。

 通りかかった、小阪というところの神社。由緒も何もなかったけれど、須佐男神社とある。なんか唐突に、玉垣もなく木立が現れる感じ。

 なんか農地の向こうに唐突にコンクリ打ちっぱなしのハイカラな建物が現れ、これが田原本町の図書館・公民館・生涯学習センターとコンサートホール、そして唐古鍵考古学ミュージアムをひっくるめた複合施設。
(現地ではこの建物は生涯学習センターと呼ばれるらしい)

 考古学ミュージアムは撮影自由でSNSとかにも載せていいよとのことで、これは唐古・鍵遺跡のじゃなくて、寺内町遺跡というところから2004年に出てきた泥面子の、特に小さい芥子面というもの。
 2cmくらいの小ささだけど、ちまちました細工感がいいな。ちょっと欲しい。

 裏手に中庭があって、建物東側の切れ目から遠くが見える。真東向きより少し北に目線が向くようになっていて、その先にあるのは龍王山。

田原本の街

 生涯学習センター近くは阪手北という村で、坂手という地名は万葉集にもあるくらい古い。古代には役所があったとも。
 阪手村の村社が八坂神社で(由緒不明)、千代神社は八千々姫を祀る。元々八条村というところにあった神社が、大和川(初瀬川)の氾濫で流され、坂手村の東の大安寺村に流れ着いた。それが森市神社というところの境内に移され、奉幣は八条村、社地は大安寺村、社殿の維持は阪手村が行ってきたそう。明治の末に社殿もここにきた。

 田原本駅に近づくにつれて、ぼちぼち古い商店街らしい雰囲気になってくる。この渋い塩の看板。

 完全に町屋造りの薬局。いい。

 こちらは元々鍋物料理・うどんと看板をかけた飲食店だったそう。
 しかしこういう味わい深い建物もずいぶん減っているそう。ちょっと寂しいがまあ、住んでる人には生活があるしな。

 そして駅前に鎮座する津島神社が、田原本の産土神とのこと。それにしては創建平安時代とあるからずいぶん新しいが。
 田原本は、あの賤ヶ岳七本槍の平野長泰が田原本5000石をもらったことからそのまま江戸時代に続いて平野氏が治めていた。その本貫地たる尾張国津島の津島社と祭神が同じということで、元々祇園社といわれていたここを、明治2年に津島神社と改めた。
 そういえば近くの神社に素戔嗚尊がよく祀られてた気がしたけれど、平野氏の影響なのかな。


 ということで、田原本巡りでした。

 行きやすいようなとこほとんど行ってしまったな……。

 歩いて京都府に入るくらい北寄りに住んでるから、南和よりも山城あたりの方が行きやすい。京都の経県値はこんな感じ。

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