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大和郡山洞泉寺遊郭・川本楼(RICOH GRIII)

 信州旅行シリーズも終わってないのだけど、しばらくぶりにお出かけしたので。
 大和郡山って城には何度か行ってるけど街の方を歩いたことがないので、ちょっと歩きに。
 で、やっぱり主に使ってたカメラはPENTAX 17なんだけれど、今回一番おもしろかったとこが屋内だったから、そこで撮ったGRIIIの写真だけで先に。PENTAX 17はフィルム撮りきってない。

洞泉寺遊郭の町家物語館

 明治に入った奈良県には公認遊郭が四箇所あったそうで、二箇所は奈良の洞泉寺町と木辻町、そしてあとは郡山の東岡町と洞泉寺町。
 しかし戦後の売春防止法で営業不能になり廃業、ちょっと他の用途に転用するのも難しいであろう建物は扱いも難しく、取り壊されていって今となってはあまり残っていない。

 洞泉寺遊郭も、最近まで残っていた建物が老朽化が激しく、2020年から昨年末にかけて4棟取り壊されてしまった。
 そういう中にあっても、川本楼という三階建ての妓楼に住宅を繋いだかなり大型のものが保存され、町家物語館として公開されている。

 入るとボランティアの方が「解説もできるけど小一時間くらいかかる、どうする?」ということで、お願いしたんだけどこれが面白い。やはり知らずに眺めるより楽しめるところがだいぶ増える。

 入口から入ってすぐ左手は、さっそく独特の奇妙なつくり。廊下を突き当たりまでいくと、右手に登り階段がある。左側の畳がある部屋にも登り階段がある。
 左手の部屋はいわゆる張見世、外から顔を見られるように通りに面した一階の部屋で、待機所になっている。
 今はこうして廊下と張見世がつながっているけど、妓楼だった頃にはここが壁だったのか襖なりの戸がある形だったのかは不明だそう。この部屋の目的からすると壁にしてるべきではあるか。

 しかし張見世とはいっても、川本楼は大正13年にできた比較的新しいとこで、その頃には外から顔を見えるのは不可になってたそう。だからかなり細かめの格子窓になっている。

 法被も当時の従業員のやつなんだろな。

 客用の階段から2階へ上がる。
 当時としては珍しい三階建てで、多分かなり格が高いところだったんだろう。階段もあまり急傾斜ではない。

 上がったところの目立つ窓だけど、向こうは屋外ではなく台所。台所が吹き抜けになってる。

 ハート型……ではなくこれは猪目窓という。
 最近きれいに壁の漆喰を塗り替えたんだけど、もともとは下の台所からガンガン煤が上がってきて真っ黒になってたそうな。

 川本楼は両隣と裏がお寺という立地で、窓からも何やら無縁仏らしい墓石が見える。そこが投込寺になってて、身よりもなく亡くなった遊女たちがあのように、というのもあながち無い話でもなさそうだけど……。

 3階建てでしょ。

 2階に上がってすぐの部屋が、普段は使わない最上級の部屋だったそうで、畳八畳に一間半もある床の間がある。

 障子にはめてるガラスも当時物がかなり残っていて、完全に平面にはなってない。それから、ヒビが入ったやつにはこうやって花柄の紙を貼って補修している。これ何箇所かで同じようにしてたな。

 この消火器は流石に使えないと思うけど、誘導灯はつけられてる。ちゃんと公開できる設備にするために8000万円くらいかけて、こういう設備と耐震補強をやった。

 二階の個室は、窓の格子も細かめで、かつ下にすりガラスをいれた障子もはめてある。二階だと覗かれるかもってことで。
 さっきの最上級部屋は八畳もあったけれど、他は三畳。

 面白いのは、売春防止法成立で川本楼が廃業した直後、なんとか商売をしようと下宿を営んだことがある。
 三畳間がたくさん並んでる変な構造、まあ下宿ならかろうじて出来なくもないかもしれない。ただ、2年くらいですぐ止めちゃったようで、色々無理があったのも想像できる。

 下宿人がつけちゃったフックとかもあえてそのまま。

 こっちのフックは細工が味わい深い。

 NHKは1968年まではラジオの受信料も取ってた。
 電気は当時から来てて、上の廊下の写真で各部屋の欄間の横に板がうちつけられてたの、あれ電気メーターつけてたんだって。

 二階から三階に、幅広の大階段がある。
 あるんだけど、こんなに幅広だと降りるときに怖くて端しか使えない。実用上問題があるこんな階段をつけちゃった理由はわかってないらしい。

 3月に大和郡山城下町で行われる雛祭りでは、ひな壇にうってつけでたいそう見栄えするそうな。覚えてたら見に来ようか。

 三階にあがるとすぐトイレがある。
 この波紋のタイルなんか今探してもないんだろな、とか、基本客用だから小便器しかついてる形跡がない(広さ的にも無理)とか、水を三階まで運び上げるのが大変だとか。

 当時物の電気スイッチ。

 3階に、ひと間だけ外に面してない部屋があり、そこにはこんな手の込んだ窓がつくってある。窓の向こうもまた別の部屋なのだが。

 建築当時はまだ電気の供給が安定してなくて、明かりはガス灯を併用してたそうな。大和郡山は当時かなりの都市だったので、ガスのほうは安定供給されてたと。

 3階も部屋の作りはおおむね同じの三畳間だけど、格子がかなり粗くて障子にすりガラスもない。覗かれんからね。

 3階廊下。椅子の向こうが大階段。

 3階の部屋は下宿人の痕跡がよく残る。

 下宿部屋の窓だけど、なぜか菊の花を絡めて飾っていた。

 戸板の裏に、女優の顔写真を整然と貼った住人がいた。
 そして次の人が剥がせなくて、新聞紙を上から張って隠したらしい。

 新聞は新聞で剥がそうとして剥がれなくて放りだした感じがあるなあ。

 階段の明り取りに、板を松葉の形に抜いているのが洒落てるな、と降りていく。

 一階に降りてくると中庭があって、これを挟んで妓楼と川本家の住宅とが一体化している形の建物。

 白いタイル張りの水道が現れた。これはどっちだっけ、客も使う方だったかな。違ったかな。

 浴室。大正時代にしっかり防湿された部屋を作るとなるとこういう感じなのかなあ。
 浴室は結構広いんだけど、湯船はかなり小さかったっぽい。

 天井には川本家の家紋がついてる。

 そしてトイレは松竹梅の飾り窓。
 しかも扉の取っ手まで飾り窓と同じ模様のものを作ってつけてたらしい。そしてここは床をガラス張りにして、下に金魚のいる水槽を見せてたそうな。
 このあたりは川本家住宅エリアかと思ってたけど、家族に3つもトイレいらないな。ここまで客が使うエリアか。浴室はどうなんだろう。

 私が子供の頃によく見てた、昭和の型板ガラスも今では希少になってるそうだが、このガラス、型で作ってるものとも思えんな。作り方の想像もつかないが。

 ほんとうになんだろうこのガラス。

 屋敷の裏に蔵がある。灯籠は……文字通り灯籠として使ってたのかなあ。
 右手に突き出すように一部屋あるのが茶室で、これは後から増築したもの。茶室内はGRIIIの28mmじゃ撮りきれない感じで、いい写真なかったんだけど。

 茶室の壁に埋め込まれたひねた枝。

 天井の縁の材には、1cmほどの竹を挟んである。そんな建材というか手法もあるんだなあ。

 もともとは住宅の一番奥の部屋だった座敷。
 写真左奥には、床の間に光を取り込む窓がある。あるんだけど、茶室を増築したもんだから窓が塞がって暗くなってしまった。

 しかしこの部屋がもう凝りまくったつくりで。床の間やらはいうに及ばず、この障子。
 普通の倍くらい幅がある。
 上半分に細い竹を並べたのを入れてあるけどこれが夏用で、外して冬用の障子に入れ替えられるようになってる。
 下段も雪見障子になってて、真ん中のところが横に開く。
 障子ひとつにここまで凝ってるの見たことない。

 欄間にはまってるのも、ぴしっと精度出して組んだ上で、あえて節のある竹材でちょっと乱してある。

 別の部屋、今はちょっとしたカフェとして使ってるところに入ってる障子もこれ。

 カフェも営利目的ではなくて、100円でコーヒーメーカーから出してくれるとか、ハンドメイドで色々作ってるものを販売してるとか。
 流石に真夏には暑いけど、ここはエアコン入れてるから人心地つける。

 客も私だけだったので、カフェの方と少し雑談しながらアイスコーヒー飲んでたのだけど、カフェの方は郡山生まれ郡山育ちであるらしかった。
 いわく、小さい頃に東岡町が遊郭だとは知らず、柳町商店街の南端のところで透き通るような肌をしたきれいな女の人がいつも立っているのに気づいて、ある時声をかけたと。
 すると「子供がくるとこやないで」といって飴をくれた。
 子供のことだからそれで味をしめてしまって、しょっちゅう声をかけるようになったけど、その女の人はいつも必ず飴を持っていて、話しかけたら渡してくれたと。
 今にして思えば、その人のほうもそういう暮らしだから寂しくて、子供と話すのが少しうれしかったのかもしれない、と。

 ただ、その話をしてくれた方はそこまで高齢の方には見えず、1958年4月1日の売春防止法施行、遊郭の廃業の頃にはまだ生まれていないとしか思えなかった。今70歳くらいでないとそのエピソードはないのでは?
 となると今度は怪談話めいてきて、遊郭から国許に帰ることも出来ずに亡くなった女性がそのまま成仏も出来ず道端に立ち続けていて……というような想像が出てきてしまう。はて。

 ……と思いきや、どうも洞泉寺町のほうが素直に58年に一斉廃業したのに反して、東岡町は大阪の飛田みたいに、その後もかなり長いこと建前をつけて営業を続けていたらしい。
 1990年あたりで諸々あって奈良県警が壊滅させたそうで、それだと下手すりゃ私くらいの歳でも同じエピソードに遭遇しうる。

 最後に、今度は受付のあった部屋から玄関に出る。
 建物のつくりからいえば、この受付は住宅側にあるな。

 住宅と妓楼が接続された作りのこの建物、客と住民が顔を合わせるのを避けてた形跡はある。どうしても一部客と住民の通路が重なっていた部分があるから、わざわざ階段を後から増築してあったり。
 ただ、それにしちゃ玄関ひとつなんだよな。そこだけ不思議。

 というわけで、大変興味深かったので急遽更新して公開。
 これは一見の価値がかなり高いと思う。

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