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「郷土」への想い方

 お盆。多くの人が故郷をもとめて大移動する。高速道路は渋滞し、新幹線の指定席はすっかり満席。実は指定席券売機でにらめっこしていると、ポツンと空席がでたりするのだが。

そんなお盆の少し前に兵庫県・西宮にある阪神甲子園球場では熱戦が開幕する。正直、夏の炎天下で野球をするのには賛成できないが、しかし伝統行事として、また夏の風物詩として楽しみにしている人は多いだろう。私もその中の一人だ。
 この全国高等学校野球選手権大会では、全国の都道府県から代表として地区大会の優勝校が出場する。甲子園の出場校はいわば「地元のヒーロー」であり、地元出身の代表校を応援する人は少なくないだろう。しかし、特に競合の私立高校のスタメンやベンチの顔ぶれを見ると、あることに気がつくはずである。例えば、第101回大会の岡山県代表である岡山学芸館高校の試合を眺めていたら、守備の交代として「大城くん」「金城くん」がアナウンスされた。実際、彼らは岡山出身ではなく、沖縄県出身だそうだ。

なぜ「地元」の代表となるのか?

 上記の他にも数多くの他都道府県出身の生徒が活躍している。厳密にいえば、純粋な「地元」出身選手で構成されたチームなど、甲子園出場校ではかなり少数派となるだろう。ではなぜ、私たちは出身地の代表校あるいはその選手を、「地元のヒーロー」としてみなし、応援するのだろうか?

簡単に言えば、故郷・故郷を想い起こさせるからだろう。自分と同じ空気を吸い、同じ文化を共有し、風土を味わっていた。「郷土」から離れて活躍する選手にエールを送ることは、身の回りで同様にして遠方で活躍する人間と重ねあわせて応援することにつながるのかもしれない。あるいは、郷土を離れている人にとっては、選手と自分を重ね合わせているのかもしれない。


郷土という想像の共同体

 ところで、私は出身の高校における同窓会幹事である。OB・OG会からしばしば連絡がくる。ちょうど一年前ほど、「母校をテーマにした映画が撮影・上映される」との話をきいた。そして先日から高校のある街で先行上映されている。
 高校をモデルにした、という映画や小説はよく目にする。しかし私は「撮影・原案・プロデューサ」まで母校に関わるということを聞いて驚いた。実際には茨木市の市政を記念した映画であるが、撮影はオール茨木。こんな郷土映画を全国で上映するらしい。作品を観る前までは、「監督や脚本、原案に俳優さんなどとても素晴らしいみたいだけど、内輪ネタにならないのか」と不安視していた。

 しかし、そんな不安は杞憂だった。作品からは郷土としての茨木が感じられ、市政を祝うものとして十分である。他方、映画作品としても私が論ずるのはいささか高慢だが、上海国際映画祭でも評価されているらしく、十二分なものなのだろう。ここでは前者に着目する。なぜ、押し付けがましい「ご当地」映画にならないのか。茨木高校出身であるプロデューサでチャップリン研究家でもある大野裕之氏は、「狭い範囲でしか見られない「ご当地映画」にしてはいけません」と語る。また大野氏の語るように、原案である川端康成の作品には茨木が数多く描かれているが、当時の面影はほとんど残っておらず、あくまで新作として現在の茨木の中にストーリーがあてはめられている点に、私は一「地元」人として感銘をうけたのだ。郷土が容易に想起できるが、外部の人間にとっては「一つの街」として描かれている。

「ご当地名物」がタピオカじゃいけませんか?

 最後に、最近叫ばれている「地方創生」について。ある地域内での活性化を目的としてローカルなサービスや商品、特産品を目玉として観光客や移住者を呼び込もうとする施策が「流行」している。たしかに、特産品を目玉として経済を回すというのは地域の活性化として定石である。しかし、その「名物」が外部の人間にとって魅力的であるとは限らない。同じ風土の中で文化や習慣を共有しているからこそ尊ばれるのであって......というものは少なくない。仮にそんな「郷土」をおもうのであれば、おいしいタピオカ入りドリンクでも売ればいいのではないか。中心である都市部ではやっているものは、大概メディアを通じて周縁である地方にも知れ渡っているはずであるから。

さいごに

 郷土・故郷へ帰る人が多い時期だからこそ、その帰る場所がそれぞれの人の中でどういう位置づけにあるのかを考えることは結構面白いと思ったので、以上のようなことを書いてみました。「非日常」的な旅行で「日常」に溶け込んでいく(実際に、完全に溶け込むことは不可能だと思う)ことで、部外者としてそれぞれの街の魅力を発見できたりします。居住できる場所が限られている「狭い」島国ならではの面白さかな、とも思いました。

散漫な文章ですが、お読みいただきありがとうございました。


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