『死にたい』のではなく『生きるのが怖い』
祖父が『死んだ』。『亡くなった』という表現を使うより実感が湧くのでこの表現にさせてもらう。本当に突然のことだったから今でも実感が湧かないのである。
祖父がデイサービスに行く時、行ってらっしゃいと声をかけたこと、ひ孫(生後1ヶ月)を見て嬉しそうに笑う顔を見たこと、姪っ子を撮りつつ、おじいちゃんの撮影を少ししたことなど色々、全て鮮明に思い出される。葬式から今日までそんなに日が経ってないから。これが最後だと思わなかったからいつも通りでいつも通りのサヨナラで。だから実感がわかない、現実味がない。
失礼な話、他の祖父母は年一くらいでしか会わなかったから悲しかったけれど、『悲しい』という感情止まりだったと思う。ただ今回訪れた『死』で人間の死は思ったより身近にあって唐突に訪れるものなのだと学んだ。たくさんたくさん後悔してるし、今もまだ実感が湧かないから泣けないしでも考えれば考えるほど辛いししんどくて、辛いという感情で涙が出てくるし、本当で天国でおじいちゃんも悲しんでると思う。前を向けていないから。天国で見守っててくれているよね?おじいちゃん、ごめんなさい。
色々突然すぎて慌てて飛行機を取ったもんだから行き帰りの飛行機は家族全員座席がバラバラだった。2人以上でいると気が紛れてなんとか取り繕うことができるから、大丈夫だったけれど、1人になるとしんどくて辛くて涙が止まらなかった。元気が出るかなと思って飛行機のイヤホンでぼよよん行進曲を聴いたけど結局泣いた。
辛い気持ちをなんとか見せちゃダメだと思って、なんとかメモに書いて消化しようと思った。その後、家に着いてから泣くんだけどね。溢れて止まらなかった。今でも実感が湧かないや。
以下葬式の後の直情メモ原文そのまま置いておく。(これまとめてたらまた辛くなってきた)(だけどこう文章にまとめることで受け止める準備ができたように思う、まだ受け入れられないけれど。
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『人間死は身近にあって唐突に訪れるのだと思った話 死ぬのが怖いというより、生きるのが怖いと感じた話 おじいちゃんの骨、立派だったなあの話 悲しいし辛いししんどいのに1週間くらい前は全然元気だったから現実味がない 後から体感してしんどくなるのかな でも明日は来るし明日も生きていかなきゃいけなくて辛い 人の死に対して実感が湧かないと思うことが怖くて怖くて、生きるのがしんどい しんどいというよりは怖い 緩やかに死に向かって生きていかなきゃいけないのが怖い いずれ迎えなきゃいけない自分の死というものが怖くて怖くてたまらない 私の推しもいずれ迎えなきゃいけない死 その死とどうやって向き合っていかなきゃいけないのか 考えれば考えるほど分からなくなって心のモヤモヤが晴れなくて辛い 4月からは就職、前を向いて歩いて笑って生きていかなきゃいけないのに辛くて、しんどくて 赤ちゃんで生を感じておじいちゃんで死を感じて 生死を感じてとても辛い 死にたいとは思わないけれど、生きることが怖い どれだけ悲しんでも辛くても美味しいものを食べたら美味しいと感じることが逆に怖い 朝化粧した時点で今日は泣かないと決めていた 母と叔母が苦しくて悲しいことは知ってたから でも1人で今こう文章を書くと何かと向き合わなきゃいけないようなきがして、泣きたくなって辛くなる いずれ死ななきゃいけないんだったら誰にも悲しんでほしくないしそういう死に方をしたいなとも思う 私のために泣いてほしくない 大好きな人にはずっと笑っていてほしい 私にとって写真は記録に残す意味でも記憶に残す意味でも大切だとずっと思ってたけど、これを機にさらにその思いが強まった いつ人が死ぬかなんか分からなくて、多くの人が悲しんで、辛くてあのとき話しかけとけばあっとけばと後悔して、後悔とも向き合っていかなきゃいけない 永遠なんてないのに永遠を望んでしまう』