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平均台は渡れない


 友人が自殺をするので一緒について来ないか、と言った。心中するつもりはないので、ただ見送ってくれればいいと言う。
 突如水中につき落とされたみたいな暗澹。俺はその言葉だけで心中させられた。

 「あはは、本当に来た」
 いつもと変わらない飄々とした颯人 «はやと» 。本当に、どうして来てしまったんだろう。
 「だって。……でも、あ、現時点、こうして颯人だって、俺を待っててくれた訳で、」
 「うん。智也 «ともや» に来て欲しかったから」
 颯人はにっこりと微笑む。これで最後だと知らしめられる。俺は何も言えなくなる。
 「こっち行こう。」
 地下鉄の入口を指差され、いつも通りに俺は颯人についていく。もう颯人に案内されるのは今日が最後だ。自分と一緒に、お互い知らない場所を、歩いて、同じ景色を見ることの出来る人は多分、他にもういない。

 今日は平日だというのに車内は昼特有の出掛け用の装いの人ばかりだ。俺たちは非現実的だった。
 「もう下見には行ったんだ。遠いし、いつも乗らない電車でさあ、最初は通学中の学生で埋まってたけど、その後はがらがらで、観光客っぽい年寄りが多いからすごく、僕だけ自殺しに向かってるんだあっ、つって、面白くなった」
 頭が膨張して、揺れる感覚がする。
 「あっそう」
 「車窓からの景色、きれいだったんだよ。智也にも見てほしいんだ」
 いやだよう。頭の中で間抜けに反響した。何より嫌なのは、こいつが今から死ぬってのに、俺に一切実感が湧かないという事なのだ。

 颯人と出会った経緯を説明すれば、SNSで好きな音楽アーティストが同じ、ということで、知り合った。最近ではよくある話だ。ライブで初めて顔を合わせた後、隣接した県に住んでいる事がわかり、何も無くとも遊んだり会うようになった。出会って二年だ。世間的には まだまだ短い、ということになるのだろうが、それにしては俺達は深淵を共有し過ぎたし、それぞれ身近に正直に物事に対し好きだ嫌いだ言える人間が居らず、SNSに書き殴ってばかりで、そんな意地汚い感情が交差し合って、歪な仲間意識が芽生えていた。信用する事が出来た。俺は暇だったので颯人がした話は全部見たと思う。一方颯人は俺の話を全部は見ていないはずだ。見ないでおいてほしい。
 あいつの好きな部分は感受性や言語化が面白い事だ。映画を観たあとに話すのがすごく楽しい。なにより、自分のような面白みも何も無い人間に関わってくれている事実が有難くて嬉しかった。嫌いな部分は大学生で忙しくしている事だった。
 とにかく、俺と颯人はお互いの感情を殆ど知り尽くしていて、片方が死ぬと告げられれば動揺するくらいの距離だった。結局、自分からしたらの話に過ぎないが。
 十月も終わり。上着なしの体は肌寒く、いつもと変わらず俺たちの頭上の空は灰色だった。

 「なーんにもねえ」
 俺の方に体をねじって、小さな子供みたいに窓の外を眺める颯人。子供じみてる。ただ、こいつもおれもぎりぎり十九と十八ではある。
 「本当に外が綺麗だって思った?」
 俺の声はかき消された。電車はひどく揺れ、金属と金属の擦れるキイキイと不快な高音と連れ同士の話し声で満ちていた。口内の下前歯の前にある、内側の唇を数ミリ噛む。車で来れたら、こんなやかましい場所を経由せずとも済んだし、最期に好きな音楽も共有出来た。こいつの為に、免許取っておけば良かった。
 「ん。前来た時は天気もよかったし。」
 やや話の合間に時間が開くものの颯人はすべてを聞き逃さずに返事をするのが不思議だった。あ、かかし。と全く興味がなさそうに呟く。
 「あー。そう、こっからがおもしれーのよ、海だぜ? 海、行くんだ」
 海。皆が浮かれ騒ぐはずの場所で、景色を尊ぶ場所で どうして海に飛び降り自殺しようなんて実行しようと思うのだろう。人間の死体は水を吸うと醜く全身が膨れ、グロテスクな風船みたいになる。若い自分達が自ら汚くなる必要なんてないのだ。
 「あとなあ、良いとこ知ってんの。喫茶店。」
 こいつは本当にコーヒーが好きだ。
 「自殺の名所に?」
 颯人はわらって違う違う、と言い
 「僕だけの自殺の名所だって、辺鄙な場所にあるただの海が近いだけの店だよ。」
 と答える。
 「……もうそこ行ったんだ。」
 なんとなく、既に一人で下見に行ってきた事実を否定したかったのだ、俺は。
 「行った。近くにあるって、いいよなあ」
 家の近くに美味しいコーヒーが飲める場所がどこにもない、と言っていた颯人は最期を迎える場所の近くで、近くにあるっていい、を体感する事になったのだ。全部嫌だと思った。颯人の家の近くに美味しいコーヒーを飲める店があったら、こいつは死なない選択肢を選んだだろうか。でも その可能性はグラニュー糖一粒くらいの可能性かもしれない。
 「お前が好きなフロートもあった。ざくろのやつ。」
 「あ、そう。」
 メロンのクリームソーダはあっても、ざくろのクリームソーダはそうそう無い。期待していなかったので心底では喜んだ。
 「うん。あと三分でもう着くよ。」
 どんどん近付いていく。辛かった。なんて言葉をかけたらいいかばかりを考えていた。

 「着いたーっ。潮の匂い。」
 鼻に空気を入れてみる。うすくする潮の香り。
 「なあ、どこの潮の香りもさ、別もんだと思うんだけど、わかる?」
 そんなの、感じたことはなかった。俺は颯人を理解していたかった。
 「わかる」
 「だよなー。あっ、やべ、ここICカード使えないんだった」
 「マジか」
 俺たちは窓口のおっさんに頼んで、手続きをしてもらう。無人だったら勝手に出てってたわ、もうこれ使わないし、と颯人は後でそう話した。

 「あっち」
 iPhoneの画面を覗き込みながら無表情に颯人が言う。携帯電話の画面を見ている人間と話をするのはなんとなく気が引ける。地図に集中できなくなったら申し訳ないし。
 「十分もあれば着くよ。」
 だから心配しないで、と颯人が笑う。俺たちはいつだか、一時間近く歩く羽目になった事がある。
 「随分近いな」
 「いいだろ? 何回でも来てえや」
 いちいち俺は颯人の発言にびくついた。俺がこいつを気遣う事で、こいつの機嫌を損ねたくない。怯えた。
 「なんだよ。やっぱり来た事後悔した?」
 「してない。」
 察したように声をかけられたけれどそうじゃない。俺が上手く言葉にできないだけなんだ。
 「お前が饒舌だと安心するよ」
 だから喋って、と颯人が言う。このまま歩くのは、あと何分なんだろう。
 「……何の話。」
 何の話をすればいい。などと聞くのは甘えだというのに口を衝いて出るのはそれだけだった。
 「ええ? そうだなあ、酒飲んだ後便所最高何回行ったか、とか。」
 「は。何。そんなん、俺ら未成年じゃん。ああ、まあ、あるよ。酒飲んだことくらい。そんな数数えたことはないけどさ……俺そんな行かないけど。あ、ええ? うーん、あー……四回?」
 「もにゃもにゃじゃん。」
 どもりすぎだろ、と笑う颯人はたまに変な形容をする。なんにも無い車道のほうに顔を向けていたら横で 着いたよ、と言われた。

 深いブラウンの外見。壁が木の板で、重厚感のある見た目。こいつが好きそうだ、と思った。
 「あんまコーヒー屋っぽくないけどな、ちゃあんとコーヒー屋で、喫茶店で、良かったんだよ。」
 颯人がお洒落なカフェだ! と思ったら美容院やら不動産でムカついた、という話をしていたのを思い出す。
 「よかった」
 「うい。」
 こんにちわあ、とはっきりした声で店員に呼びかける。颯人は円滑だ。こいつより、余っ程、俺のほうが生きるのが下手くそなのに、だというのに、どうして颯人が死ななきゃならないんだろう。

 おおきい窓の隣。低い低い建物群の先に見えるうすい海と空。でかいつやつやのテーブルに颯人は両腕を伸ばす。
 「ぐあ。」
 俺は颯人の腕をどけてメニューを開く。本当にざくろのクリームソーダはあるのだろうか? 十月でも? そもそも、こいつはいつ下見に行ったんだろう。夏だったのかな。
 「ケーキ食いたい。」
 つっぷしながらもごもごと喋る。
 「どれ」
 ケーキのページを開いてやる。チーズケーキ、ガトーショコラ、モンブラン、プリンアラモード。颯人はあんまいケーキと熱くてにっがい珈琲の組み合わせは完璧だ、といつも言う。
 「んー。智也は何食うの?」
 「俺は別に……」
 いつも俺は飲み物だけを頼んでばかりで、申し訳ない気がしていた。
 「あ、じゃあ、一緒の、頼むよ。」
 それで、撤回する。
 「ナポリタン?」
 「なんで?」
 「いやあ。お前しょっぱいものの方が食べるじゃん」
 それを言うなら颯人は少食でそんなの食べたがらないだろう。
 「好きなの食えよ。最後くらい」
 言い終えたあと、言うべきでない言葉だとわかった。目線を合わせられない。外を見るふりして、視界の端で颯人の顔を捉える。何ともなさそうな顔。まだ決めないのか、という顔。どちらでもあって、どちらでもない。
 「僕もしょっぱいの食いたい。分けてよ」
 結局俺は最後までこいつに気を遣わせる。でも、もしかしたら、颯人は俺に気を遣うのが嫌ではないのかもしれない。颯人は俺より七ヶ月年上だから。
 「じゃあナポリタン。」
 「決まりだ」
 すみませーん、と言って手の指を大きく開いて腕全体を振って店員を呼ぶ。本当に、死ぬなんて嘘なんだろう?

 いつかの夜の喫茶店。
 颯人は、僕は働けないんだ、と言った。バイトいろんなとこ、たとえば、ファミレスの皿洗いもプールの監視員もセミナーの受付もシール貼りもスーパーの品出しもやったけど、どれも続きやしなくて、辞めるって言わないままの職場もいっぱいあるし、制服も返してない、と笑った。制服を返してないのはヤバい、と俺が言うとその言葉待ってました、と言わんばかりに嬉しそうに颯人はもっと口角を上げた。俺も、口の端に力を込めて笑った。笑ってあげたんだと思う。俺は真面目だった。そういう手続きみたいな事柄はやらなくてはならないと思っていた。
 それから颯人は煙草の煙を吐いて、働けないと、人は生きてちゃだめなんだよ。と、こぼした。続け様、親だって裕福じゃないしね。とも。俺は自分のことを考えている場合ではなかった。

 よくさあ、親からの愛を貰えないと人格が破綻するって聞くでしょ? ほら、あの映画とかでもさ。ウチは離婚もなんもしてないけど、昔っから いっつも働きっぱなしで、僕一人だった。宿題もせずにゲームばっかやってるから、取り上げられて、それからはトムとジェリーを親が仕事に行って帰ってくるまで、朝の九時から午後六時くらいまでの間ずっと見てた。繰り返し繰り返し、ほんとに、ずーうっと。親が家にいないってだけで暴力とかはなかったけどさ。人格が破綻するには僕のは物足りないでしょ。全然、颯人の人格は破綻していなかった。俺は黙って聞いていた。ろくに返事ができなかった。彼を思って薄っぺらい言葉を口に出すくらいなら、解ったふりをするくらいなら、黙っていた方がいい事と彼と話している内に知った。颯人は親から虐待される子どもを羨ましそうに話した。
 俺も、何事もなく、無難な己の生い立ちに後悔していた。これは颯人の思想からの影響もある。もっとこいつの痛みがわかるような、偽善なんかではなく本当に、理解出来ると言える人間になっていたかった。颯人が生ぬるいと思っている欠損した過去を肯定したい。救ってやりたい、と思った。そうすればこんな時だって訪れなかったと思った。もし、颯人より苦しく、颯人が羨むように親から虐待されて自分が生きてきていたら。俺はどうなっていたんだろう。全く想像がつかない。いつだか颯人はSNSで、「あいつらは同情が誘えるからいいよな」 と言っていた。同情を誘える人間。苦労をして、最後に救われる人間。主人公のようで、想像ができない。自殺、していたかな。そう、思った。颯人がするよりも早く。今頃は。

 潮風。
 荒波と岸壁の衝突音。
 とうとう来てしまった。
 「お前が来てくれたらさ。淋しくない気がしたんだ」
 颯人が足元を蹴る。そこで転倒なんかしたら、死んでしまう。
 「自殺、止めてほしかった?」
 俺の口から ぱっとでた言葉。あ。いい、やっぱ、答えないで、くれ。お前は俺の一言でそんな考えを改めるような奴じゃない。だから、こうして来ているのだし、俺が止めないのを分かっているから、こうして俺を選んで連れてきたりなんかするんだ、そうだ、いやだ、いやだ、いやだ。ああ、これを、正直に伝えれば、言えば、いいんだよ、な。なんでこうやって、いつも言えないでいるんだろう。言うべきではないと思ってしまうんだろう。
 「……ううん。なあ、後悔しなくていいんだよ。智也はさ。」
 見透かされている。そりゃあそうだ。以前 「自分が死んだら、俺の死に何の関係もないアルバイト先の店長が勝手に責任を感じそうで申し訳ない」 だとかを言った。SNSで。颯人じゃない誰かに向けたはずの発言。
 「俺は……颯人の、生きる意味とか、そんなでかくは言えないけど、なんか、」
 「それはごめん」
 淋しそうにわらう颯人。やはり颯人は知っていた。俺の考えてる事なんか全部知ってるんだ。言わなきゃよかった。颯人を信用してないみたいだった。彼の生き甲斐になれなかった俺の不甲斐なさと、それを受け入れられない颯人のかなしみをおもった。
 「でも、最後にお前を選ぶ、ってのでちょっとは許してくれよ」
 はあ、
 「許すって、俺が颯人に許してもらいたくて」
 「そんなことねえし。大丈夫よ」
 「なにが?」
 すうと彼の表情がきえる。やわらかい笑みだけをのこす。もう、颯人には、この世には、俺には話したいことがないんだ。
 「一緒に死ぬ気になったりした?」
 微塵も颯人がそれを願ってないという事を知っていた。颯人はしゃがんで崖の下をみる。この人が自殺に失敗し後遺症を抱えながらも生き長らえてしまう未来を想像した。死なれるより怖かった。
 「死にたくは……ない。」
 正直に答える。
 「そ。じゃあね」
 すっと立ち上がる颯人。
 「えっ、あ」
 俺は颯人の腕を掴んでいた。

 死んで欲しくないからではない。もうすこしだけ、話をしたかった。
 「何か言い残すことあった?」
 どうしてそれを俺じゃなくて颯人が言っているんだろう。なんだか笑えた。溜息みたいに。俺が言い残すこと。
 「好きなアーティストとだったら、実際に会った、って事実に握手する……だろ。最後に握手、してみたいな、って」
 「握手ね。いいよ。」
 にこやかに笑った颯人が俺の手を両手で握った。もう二度とする事の無い、握手、俺の為だけに最後、手が形を変えそうになるくらい、握りしめられた。颯人の気持ちを想った。言葉に出来ない、感情のことを。俺も精一杯、握り返す。顔が見れなくて、俺達の手を凝視していた。変な色をして変な形だと思った。
 「ね、僕の死体見ないでおいて」
 颯人は俺に背を向ける。
 「見たくない。」
 ふふ、と笑う声が小さくした。
 「今日は、楽しかった?」
 颯人は空を見る。俺も、空を見上げる。太陽がどこにあるかもわからない曇天。
 「来て、よかったと思う。」
 彼の後ろ姿を見て言った。波の音にかき消されないように、おおきく、声を張った。
 「ありがとうな。本当に、智也には感謝してるよ、誰よりも」
 「んじゃ。」
 振り返って、俺を見る。笑顔。この光景が俺には一生焼き付くのだろう。
 「俺は、ああ、」
 ぴょん。と いつだか横断歩道の白い線に飛び移るときみたいに、颯人は崖を飛び降りた。俺はすぐさま耳をふさいだ。
 俺はしゃがみこんでいて、荒っぽい波の音だけが耳の中で反響していた。

 力が抜けて、全てがどうでもよくて、地面に横たわっていた。硬い黒い土。地面。ざっぱーん、だっぱあああん。もう、颯人の顔が思い出せない。どんな顔、していたかな。泣いてたのかな。ちゃんと、笑ってたかな。怖くて、こわばった顔をしていたのか。また、俺はここに来たいと思うのだろうか? 今日を思い出して、また来ようとするのか。 どうせ、こんな場所、俺たちでしか来る事はない。颯人が自殺しに、電車に乗って。俺はそれに、ついていって。もう二度と起こらない。
 颯人と遊ぶことが出来ないのは退屈極まりなかった。そう、強気でいてみても、何もかも意味をなさなかった。俺は颯人が死んでも泣けなかった。俺にはどうする事も出来なかったのだ。俺は来た道を引き返して、電車に乗って、いつも乗る電車に乗り換えて、最寄り駅に着き、家へ帰り、のうのうと生きていく。

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