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縄文時代のステイホームについて

ステイホーム、コロナという誰もが、どの国もが無関係ではない災厄で、家にいなければならない日々が続いていたことは誰の記憶にも新しく、もちろん今だって終わったわけではない。

在宅ワークも一気に進んだ。多少自由に外に出れるようになったとしても、今では在宅でできるものをあえて会社に出社してする必要もないだろうという考えも珍しくなくなった。自宅での快適な仕事環境を整えた人も多いだろう。

もしかしたら縄文時代にもそんな時代があったかも、と言ったらどうだろう。
もちろん、コロナではなく、なんらかの疫病が流行っていたという証拠もなく、家に閉じこもっていた証拠もないのだが…縄文時代のある時期、なぜか縄文人は家(竪穴住居)に力を入れていたのだ。

それは縄文中期末から後期初頭にかけての話だ。以下にいくつかの例を紹介しよう。

と、その前にまずはそれ以前の竪穴住居(1)これがいわゆる竪穴住居の跡だ。丸く凹められ、柱の穴がいくつか残り、石で囲った炉が見える。

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上の写真の炉から、突如、炉が豪華な仕様になる。これが複式炉だ。

中期末から後期初頭の福島の竪穴住居の複式炉(2)

深沢A3住炉新

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同じ時期関東や中部高地では住居全体に平な石を敷き詰め始める。

中期末から後期初頭の関東や中部高地の竪穴住居の敷石住居(3)

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十字型の洒落た敷石住居もある

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たとえばこの豪華な炉(2)。これは複式炉と呼ばれている炉だ。通常は一つで事足りるはずの炉が二つ、場合によってはもっと多く設置され、それだけではなく前庭と呼ベル石組まで作られている(この前庭の使い方はわかっていない)。
複式炉が作られる直前(1)は簡素な石囲い炉という四方に石をおいただけのものだったり、地面の上で直接火を焚く地床炉という炉だったのだ。これは全く別物と言ってもいい炉だ。これは東北南部でよく作られた。
関東や中部高地の敷石住居(3)もこの時期で、全面に敷かれた平な石、それだけでも十分に手の込んだ住居ではある。その中でも柄鏡型をしている敷石住居を見てほしい。エントランス部分を重要視するというコンセプトはまさに縄文時代を通しても白眉の出来といってもいいだろう。

長くは続かなかった。特に複式炉の時代は約200年〜300年、それを過ぎると潔くその姿は消える。この時期は同時代的に竪穴住居が豪華になっている傾向がはっきりと見える。一体どういう時代だったのだろうか。

実は思い当たる原因がある。それは寒冷化だ。縄文中期末から後期初頭に気温が急激に下がる時期がある。詳しく言えば氷河の海洋への流れ込みが原因と見られる寒冷化(そのことを発見したジェラード・ボンドの名前にちなんでボンドイベントと呼ばれている。ボンドイベントは何度か起きており、中期末から後期初頭のものはボンドイベント3、または4.2Kaイベントと呼ばれている)が急激に起こり、海は徐々に後退し始め植生も変わり食料事情も変化する。そんな時期、こういった住居が作られていたのだ。
住居とは逆に、直前までこりに凝っていた土器を作り上げていたはずなのに、この時期の縄文人は土器に力を入れない。土器に注ぐエネルギーはそのまま住居に向かう。
人口も減ってしまった時期でもある。あまり単純化してしまうのもいけないし、気温の変化とこれら複式炉や敷石住居の関連性はわからない。しかし、寒冷化に苦しんだこの時期の縄文人たちは、もしかしたらおうち時間を充実させるために住環境に力を入れていたのではないだろうか。

そんなことをこのコロナ禍の東京で想う。

そして、この時期を境に縄文時代の文化や祭祀のあり方は大きく変わっていく。


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今回のnoteは縄文ZINE13号と呼応しています。土器の面からこの寒冷化を見て、複式炉の企画も掲載中。めちゃ面白いのでぜひ読んでください。炉はネクストステージへ。

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