犠牲なくして贈り物ではない/あけおめ
こんにちは
タイトルは、タルコフスキー“サクリファイス(Offret)”より引用の最も好きな台詞です
(それ以外の意味はなし)
年越しということで、実家に、あの
帰省をしています
とはいえ、同じ都道府県内を電車でスーと移動するだけなので、帰省自体は行っているため特に大イベントというわけではないの
のだったが…
実家に着くと、玄関のドアのフチに金髪のエクステがぶら下げられていて怖かった。
厄除け?ドリームキャッチャー的な?
私の部屋と妹の部屋が入れ替わって、ベッドや棚という大きな家具がそっくりそのまま入れ替わっていて、その内容物であったはずの私と妹の洋服やカメラや本が大量に居間に積み上げられていた。
え?!
となって母のLINE(ライン)を確認すると、
変容だ
というわけでね、狭い部屋に入り切らない物をどんどん断捨離していってます
やや断腸の思い
ちなみに、数ヶ月前話題にしていた首ちぎれ恐怖症は寛解しました。知らないうちに!しばらくぶりに、開けていなかった戸棚や箱を開けると色々ないらないモノに溢れていた。高校生の時分の私は一体何がしたかったのかしらって感じのいらない創作途中のカケラみたいなモノや、こんなの絶対着ないわよって感じの洋服も悲しくなるほどたくさんにあった。自作のトルソーとかも出てきた。もう二度と読まないであろう本や漫画も段ボールいっぱいに詰まっている。
これらが自分の確固たる…トキメキだった時代が、かつてこの部屋の家具の中に確かに棲んでたのか、はあ、みたいな気分で、それを今の視点で選別するのは楽しみもある反面ちょっと疲れる 過去の私は悪くないし、過去の私も未来の私も現在に確実に存在しているのに、現在の私だけがモノの選別に携わってるなんてそんなことでいいのかしらと思う、だが、なんというか、度々これは考えることなのだが、“もし今家のもの全てがなくなったら”と考えると、意外と全ての私物を失っても別に平気な気がしてくる。生きるには足る、ような気がする、いまの日本の私の棲むこの場所で幾分かの家やモノを失ったとしても、それが戦争や災害ではないなら、と思うのだ、やや飛躍した思考ではあるが、そう考えるとモノを棄てることが決して苦ではなくなってくるというか、むしろ朗らかな意味としての使命に感じさえする。どう考えても、私たちはモノを持ちすぎた、モノを得た魂は、モノを手放すその時まで充足と同じ姿をした病症をかかえているのだろうか
多摩川を懐古してますよ
多摩川
あー
呪われたイグアナ
ジップザックの刃運転
ダイナミック試乗運転
矢継ぎ早
は 歯 hah
六角七屑の
ビバ
切れウィンクして
また来ている
乳臼
は 歯 hah
リズム症
戻れないから就職活動したい
踵を上げて
五本指の天使
七本の天使の柱
宙に光って
ヒーハー ハー Hah
ある地点について、そこに行きたいからというだけでまだ人間でいることがありますか?
形状のことが好きですか?
人間のことと、形のことだったら、どっちの方を考えている頻度が高いですか?
あけましておめでとうございます
はい
年越しは先輩方のパーティーに飛び入り参加させていただいただが、部屋では巨大なクリスマスツリーがきらきら光っていた。さらにノートPCからはクリスマスソングが延々と流れ続けるわ、集まっている人々のほとんどが身体のどこかしらに赤い衣服を身に付けているわで、なんだか年越しというより時期のずれたクリスマスの気分でサイコーだった
初詣のおみくじは大吉だった
大吉
大吉のおみくじはさ、嬉しいんだけど
基本的にいいことしか書いてなくて張り合いがないね
ありがたいんだけどね
あけましておめでとうございます
浮間舟渡に行きました
荒川ですね、つまり
うち多分河と結婚すると思います
好きな人にデートで会いに行くのめんどくさいから一緒の家に住むためにするんでしょ?結婚って
ていうか、
なんか、こうやって
語りかけ口調でnote書くのやだな、、、
次からやめますね
今年の抱負は、たくさんあるけどやはり姿勢良くすること。ものの形状が好きすぎて形のことばかり気にしちゃうが、人間ともっと関わろうとすること
あと料理
料理、これはね
頑張るので
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