加速主義、知識社会、全体最適

公共政策の本を読んでいてこの言葉が浮かび上がった。現代の制度だとすべての人に参政権があるが、すべての構成員の意見をそのまま反映することはできない。誤解や事実を無視したものもあるので齟齬が生まれる。
そもそも共通の利益とはなんだろうか?価値には優先順位がある。そのなかでの共通性とはなにか?符号のようなものだろうか?近似値のようなものだろうか?かたいものだろうか?なめらかなものだろうか?
そもそも人は何で動いているのだろうか?脳の構造、精神医学的に言えば前頭葉や理性の働きが重い。それを前提に集団が機能している。構成員の知能の状態が社会に影響する。社会が構成員それぞれの知能に影響することもある。その結果としての意思決定。意思はそもそも存在するのだろうか?大きな流れの一部だろうか?
物理的な事実としては、動物は栄養が必要だ。人間の場合は不足すると認知機能が低下する。木のようにはできていない。光合成の結果としての様々な産物を動物である人間は受け取る。その結果としての生がある。

加速主義というのの知識における側面を思い浮かべた。それぞれがそれぞれの研究をし知識を深化させてゆく。その結果として社会が変革されていく。私はこういうふうに受け取った。知識社会は飛躍を繰り返し、頑迷なものがどんどんなくなっていく。
その結果としてよりなめらかな社会となり、優しい環境になっていくのではないかと結論した。部分最適ではそれぞれの硬直的な部分は乗り越えられない。過学習みたいなもんだな。
そのうえでどんな公共政策を作っていくのか?特に個人の特性を数理統計学や測度論をベースにした推論システムである種の枠を作り、その枠の中に入っているもので推定し、政策を提供する。構成員がいての社会が成立するのでミニマムを提供する。ミニマムを提供するときに相互の協力を促せるようなシステムを構築する。
こんなことを思いついた。もっと言葉にできるようにしていきたい。

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