訂正可能性の哲学とデータ駆動産業について感じたこと

家族は勝手に増える。そこに訂正可能性があるという話だった気がする。誤配があるから違う状況が生まれ得る。ルールベースでは説明できない現実がある。ルールの硬直性とは別のところで状況が発生していく。
これとリスクを管理する産業、検索エンジンのようにデータを収集しそこから未来の製品やサービスの提案に資するような意味づけられたデータを提供するプラットフォーマー、セキュリティリスクを管理する産業のこれまでしてきたことの関連を思い浮かべる。

家族的なつながりからは今まで人類は解放されたことはなかった。なんらかの主義は家族の意味を軽視してきた。家族から人を解放し、公共に組み込むような主張をしてきたのだ。しかし結局現実は家族的な枠組みで動いてきた。ファミリービジネスがいい例だ。メンバーシップや属人的な人気商売もそうだろう。それとこの本で言われていた一般意思、その変形である人工知能民主主義のようなものとの関連は何だろうか?

そもそもの前提として言語は硬直的なものだろうか?それは違うと思う。言語が廃れることはあっても、新たな言語体系が勃興したり、言語が溶け合わさって新たなものが生まれることがある。言語ゲームは訂正可能なのだ。ルソーの言う一般意思のようにはできていなかった。統計的パターンでそれが見えるかもしれないが次々と生まれる創造性は測りえないように思う。パターンはあるがその内容は常に変わっていく。それが現実ではないのか?
データ解析で属性が定義できても、それで個人の行動予測は難しい。その個人の内実は時として急な変化、つまり極値が見られることがあるからだ。それは言語の飛び飛びの変化にも見えるもののように思う。言語が変化するように、個人の内実も変化していく。

そこでデータ解析やそれを利用する産業はデータの拡張可能性、訂正可能性、状況の不確実さについてどのような哲学を持っているのだろうか?これが訂正可能性の哲学を読んで得た疑問である。また偶然の誤配についてどのように観測しているのか気になっている。人は誤り、訂正するこのゲームを続けている現実に対してどのような態度を持っているのか。

数理統計学やアクチュアリーの数学は汚い数学のように思っていた。これがそこまで社会に影響を与えているとは思っていなかった。影響を考えるとこの考えは訂正しなければならない。この二つが宗教のようになっていないとは思うが、何かあったときに訂正できるような態度を持っておいたほうがいいと考えを変えた。今取り組んでいる機械学習と関係があるのも何かの縁だろう。



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