人権としての積極的安楽死

生命倫理の本を買ったので読んでみても安楽死について書いていなかった。今井道夫さんの本だ。尊厳死については触れていたような気がするがまだよくわからない。
自己決定権とはどのようなものかというのが問題になるはずだ。自己決定権によって生命を続けるか、そうでないかの選択ができるのか?人の生に公共性はあるのだろうか?生が個としてみなされるとしても、人は社会的動物であるので社会によって制約を受けるのと同時に、社会から庇護される。なら社会から死という形で離脱する権利はあるのだろうか?社会は個の生命に対してどこまで介入できるのだろうか?美しい生や死とはどんなものだろうか?それはどのように達成できるだろうか?人間の理性はどこまでの想定ができるのだろうか?理性と本能はどのように調和できるだろうか?前頭葉の働きが大であるので理性が自然と重んじられるような社会環境となっているが、理性的な死というのは存在するのだろうか?道徳的な死というのは存在するだろうか?もし存在するとしたらどんなものだろうか?

などのような疑問が生まれた。本能が死を望むとしても理性が重んじられる現代ではそれは合理的な理由がない限り認められない。治療が困難な疾病を抱えていてQOLが著しく下がっているとき、それが複数の医師によって承認されているときだ。これは確かに納得できるが、人生に絶望している人にとってこういう制約の多さは本当に正しいのだろうか?なぜ人生の存続を社会の意思によって左右されなければならないのか?当然そう思う人はいるだろう。これに対して倫理や様々な規範はどう答えるのだろうか?
人生はそもそも緩やかな死だ。それが遺伝的弱さや環境要因、自己のリスクを高める行動によって死が早まったりする。物理的現実としての死は常にそばにある。それがそうでないように見えるのは、様々な歴史的経緯から生まれた伝統や規範、文化によってマイルドになっているからだ。
このマイルドさを社会的同意によって拒否し、死を選ぶのが積極的安楽死のように思う。
積極的安楽死の個別具体的検討はくたびれそうなので、間接的な積極的安楽死かもしれない反出生主義について忘れないうちに書いておく。
生まれてくるかもしれないという存在に対して、生殖を拒否することによってその苦痛を予防するというのが大体の考え方だった気がする。まだ存在しない存在に対する予防措置みたいなもんだな。これは生まれてくるかもしれない存在に対する積極的安楽死のようなものと解釈できるかもしれない。今は積極的安楽死は日本ではあまり進んでいないが、反出生主義については個々の選択によってできるのではないか?または、その人の信用データや消費データに基づく与信能力の内容、その人の行動履歴による資質の解析によって親としての資質があるかどうかを判断させ、反出生主義を実装するというのも面白いように思う。悲劇の予防をするサービスとして。

優生思想のようなものは許してはならない。ルッキズムや遺伝的な脆弱性による保険サービス上の差別のようなものはその最もたるものだ。これらをもちろん是正していく前提で積極的安楽死の運用を直接的にも間接的にも進めていくことも倫理的と言えるのではないだろうか?物理的現実とその人の人生に対する解釈の調和の形として。


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