何の意味のないことをやったり何の意味のない存在でいることは楽しい

これは本当にそうだ。そもそも数学をやったり、計算理論の構造で遊んだり、絵を描いたりするのは本質的に意味がない。何々の役に立つからやるというのがいままでピンとこなかったのが影響している。逆説的になっているが意味のないことを楽しむことに役に立っている。
人生に意味があると考えるのはちょっとおかしいと思う。たかだか寿命が延びたとはいえ何十年かの人生が何の意味があるというのか。人生に過度に意味があるといふうに思い込むのはキリスト教やそれに影響された資本主義に毒されすぎだ。
キリストはあくまでキリストだし、行ったことや言ったことは人生で大事かもしれないが、キリストと同じことはできない。善いとされることは常に変わるわけだし、根本的なところは変わらなくてもどのように実行するかは変えていく必要はある。
そもそもこの人は私に役に立つから接してみようとか自分の嗜好に合うからとかというのはおこがましいのではないか?この人は自分より優れているからコンタクトしてみようとか、道具主義の悪い部分が表れている。能力主義で人的リソースを配分するのはわかるが結局必要悪のようなものでなくても成立するならなくてもいい。
それよりも分からないことが分かる喜びのほうがいいはずだ。役に立つかどうかはわからないが、楽しいことは確かだ。自分がいれば何とかなる。道具主義や依存心で他人を汚さなくても済む。
最近隠居の楽しさが分かってきた。ただそこにいるということ自体が楽しい。何をしてもいいが、何もしなくてもいい。そこが面白いのだ。おそらく最低限の消費をすることや寄付、他人を少し助けること以外は役に立ってはいない。そういうことさえおそらくは無常であり、移りゆくものだ。だから役に立ったと主張することもできない。そもそも意味がないのだ。
自分の存在に意味を求めることも他人にそういう主張をすることもはっきり言って面白くはない。必要だとしたら必要悪として存在している。
すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなるものだ。10分くらいの暇つぶしにはなるだろうがそれを積み重ねていても飽きてしまう。

役に立たないと思われることは本当は楽しい。タノシサヲユウセンスルナラこっち側が居心地の良い。

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