見出し画像

3 ___足りない / wacci

朝起きて目が覚めて隣が冷たいともう一度寝たくなる。こんな天気のいい朝なのに。シーツを撫でて彼がいなくなった冷たさを実感する。白い壁を見ながら、朝のことを思い出す。今日の朝、寝ぼけたまま、キスをした。行かないでと振り向かせてキスをした。そこからは記憶が曖昧で。頭を撫でられて、そのまま寝たかもしれないし、振りほどかれて出ていったのかもしれない。もう覚えていないけど、あのキスは私からした最初のキスだった。きっと。
私たちは高校生の時に出会って、大学生の頃から付き合い始めた。初めはただの友達だった。彼の恋愛も見てきていた。そのぶん、割と長く一緒にいて好きなものも似ている。でもたったひとつ合わないこともある。
彼はビールに氷を入れて必ず飲む。私はそれがずっと嫌い。
起き上がりながら、机を見る。昨日の残りが置いてある。一口飲んだけど、緩くて、薄すくて、不味くて、苦くて、涙が出そうになった。
部屋を歩くとそこら中から彼の香りがする。昨日着ていた脱ぎっぱなしのシャツに、靴下。ほったらかして彼は出ていった。


私たちは喧嘩をよくするカップルだった。同棲しているわけではないけど、彼はよく泊まりに来ていた。彼は喧嘩をするとすぐに飛び出す。そのまま15分、長い時は30分以上帰ってこない。でも待っていれば、私の好きな味のアイスを買って帰ってくる。別に謝ってほしい訳ではないけど、一度も謝られたことがないかもしれない。待つことしかしていない。アイスと一緒に帰ってきてくれたら、もうどうだっていい。友達は別れた方がいいとよく言うけど、彼がいなくなった後の生活が想像できないし、想像したくないから別れない。友人が思っているよりも彼はちゃんと仕事をしている。ただ、ただ、怒りっぽいだけ。


昨日の喧嘩は最悪だった。昨日は珍しくお互い仕事で疲れていた。いつもは私よりも彼のほうが元気なのに。それに、昨日は付き合って7年目の記念日だった。そろそろかなと思っていたけれど、彼はそのまま寝てしまった。
ケーキも小さいけど用意して、ご飯も作ったのに。氷の入れたビールを一口、二口飲んで寝てしまった。たったそれだけのことだった。いつも通り我慢したら良かった。
でも。
今までの、鬱憤というか、溜まっていたものが、溢れ出て止まらなかった。塞き止めていたものが壊れたかのように。溢れて溢れて止まらなかった。何を言ったのかも覚えていないし、今思うとなんでそんなことで、と頭を抱えるけれど、きっと私の考えとは裏腹に心の方はもう限界だったのかもしれない。そんな私を尻目に彼は何も言わずに眠たそうにしていた。
そしてたった一言、明日仕切り直そうと言って私に背を向けた。
その瞬間。何かが壊れた音がした。

昨日のことを思い出しながら、脱ぎ捨てたシャツを片付ける。ここまでする私、もはや頭おかしいのかもしれない。片付けていると窓の外に雨が降り始めた。玄関を見るとビニール傘が2本置いてあった。なんかもうどうでもいいや。濡れちまえ。
テレビをつけるとちょうど『20代の結婚する割合』って、なんともお節介な企画やってた。5年付き合ってプロポーズされなかったら別れます。って1年も続いたことなさそうな女が言っていた。ならもう私は手遅れだ。7年だ。友達歴も合わせれば10年だ。私の青春は彼に捧げてきた。
いや。捧げたわけじゃない。”捧ぐ”そいう自分を犠牲にする、なんておこがましいこともしていない。流れに身を任せただけ。そこから抜けださなかっただけ。このぬるま湯から出ることを選ばなかっただけだ。何度もあった。でるタイミングは。
大学卒業と同時に違う就職先にした時。彼の家と私の家が片道一時間かかるようになった時。記念日を文字だけで祝うようになった時。お前って1人でも生きていけそうだなって言われた時。彼が他の女の子の名前を間違えて呼んだ時。
きっとタイミングが合えば、私は彼の手を柔らかく解いて、きっと言えたのに。
今思えば何度もあったんだ。離れるタイミングは。私にとっても彼にとっても。
それを私は目を閉じてみないように聞かなかったことにして7年も一緒に歩いていた。いや、もはや一緒に歩いているわけじゃないかも。

告白を受けて頷いたあとに強く、痛いくらいに抱きしめてくれた彼はもういない。
喧嘩して怒った時、仲直りしながら私よりも泣いていた彼はもういない。
初めての一人暮らしで寂しいとき、あやすように電話をくれた彼はもういない。
私が作ったご飯を食べて美味しいって笑ってくれた彼は、もう、どこにも、いない。

1人で生きていけるわけないじゃん。そんなのものもわからないの?
嗚呼、そうか。私がそう思わせないように振る舞ったのか。泣くのは恥ずかしいから泣かなかった。弱いって思って欲しくなくて。ガチガチに固めた殻の中で、私は一体、何を彼に見せていたんだろう。

窓を見ると雨は強く降っていた。
雨の日に初めて手を繋いで、恥ずかしくて目を合わせられなかったことを思い出した。今では二本の傘を持つようになったのに。

時は流れる。
初々しさも慣れに変わる。
ふと、今、何が私にとって幸せなのかわからないことに気がついた。
彼があの時好きだった私はどんな女だったのだろう。
私が好きだった彼はどこで変わったのだろう。
きっと”あの頃”に想いを馳せている私は分かっているんだろうな。

彼の洗濯物をすべて洗濯機に押し込み、回す。ガタンガタンと洗濯機が揺れる。
この洗濯機もどこか足りない、壊れているところがあるのか。こんなのにも気づけないほど私は余裕がなかったのか。
洗濯機が止まって、綺麗になったら、彼に電話をかけよう。
彼といても何かが足りないと分かった今の私はもう大丈夫。

1人で立てる。もう一度、私を始めるために。

彼にちゃんと「さよなら」と。



Fin.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?