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朝鮮戦争 1~朝鮮戦争の起源~
本記事は、下記note(まとめ記事)の一部です。
合わせてご覧ください。
参考文献:山川出版社『国際政治のなかの韓国現代史』木宮正史
該当年:1948.8〜1950.6
建国したばかりの韓国、北朝鮮双方の意図はシンプルでした。
韓国は「北進統一」を。北朝鮮はアメリカの傀儡政権とみなした李承晩政権からの「南朝鮮の解放」を掲げ、互いに民族統一を実現することを目指しています。
それがなぜねじれてしまったのか。
今回は韓国の李承晩[イ スンマン]大統領の動向に注目しながら考えてみます。
李承晩は、1945年~朝鮮戦争が始まるまでを取り扱った以前の記事でも登場しています。
日帝時代の大韓民国臨時政府の初代大統領や、朝鮮建国準備委員会が目指した「朝鮮人民共和国」の閣僚名簿でも主席に据えられていました。
李承晩[1875.3.26-1965.7.19]
この時点までの経歴をまとめると……
キリスト教系の独立運動活動家としてのバッググラウンドがあります。
若くして投獄されますが、釈放後はアメリカに拠点を移し、朝鮮独立運動を展開。複数の大学を経て、プリンストン大学で博士号を取得しました。
大日本帝国占領下の朝鮮で起こった3.1民族独立運動のきっかけにもなった平和原則は、プリンストン大学で親交のあったウィルソン大統領によるものです。
活動歴が長く、アメリカの名だたる政治家と親交があったことから、朝鮮の独立運動家の中でも一目置かれる存在で、上海の大韓民国臨時政府や、解放後の朝鮮の臨時内閣でも大統領として位置付けられました。
引用:「李承晩」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。2023年7月10日00時(日本時間)現在での最新版を取得。
個人的にはあまり参照したくないWikipedia先生のリンクも貼ってしまいました。
文字で名前を眺めているよりも、お写真でも、実際にお顔を拝見すると、どんな方なのか、より興味がわく気がします。
アジア人で初めて、博士号を取得した人としても知られているんですって。
さて、大韓民国を建国したばかりの李承晩大統領は、二つの問題に直面していました。
一つは、自らの支持基盤でもあった韓民党勢力との関係をどう再調整するのか。もう一つは対北朝鮮の問題です。
これらの解決のために、米国の支持を取り付けようと試みていました。
ところが、米国政府は韓国に対して消極的な姿勢を示します。
・李承晩政権の非民主主義的な要素に批判的であり、政治能力にも疑問を持っていた。
・米国を巻き込むことを目論んでの「北進統一」と認識したため、対韓安保に消去的になった。
ということが理由のようです。
よって、
1949年には駐韓米軍が撤退。
1950年1月のナショナルプレスクラブでのアチソン国務長官の演説では、朝鮮半島が、米国独自の防衛ライン(defense perimeter)の外側にあることが明示されています。
北朝鮮が38度線をこえ韓国に攻め込んできたのは、そのようなタイミングの出来事でした。
◾️朝鮮戦争の解釈をめぐって[p.24-25]
従来、米ソの代理戦争という側面が強調されてきた朝鮮戦争。
なぜ北朝鮮は「南侵」したのか。
それにはいくつかの解釈があるようです。
①西側の正統主義史観(orthodoxy):
スターリンの指示を受けた金正成による対南「侵略」戦争である。
つまりは、朝鮮半島を共産化統一しようとした、と。
②修正主義主観(revisionism):
参照:アメリカ人左翼ジャーナリスト I.F.Stone『The Hidden History』
米国を中心とした西側が北朝鮮の南侵を誘導したという解釈。
朝鮮戦争をきっかけに、中国共産党の台湾侵攻が困難になり、アメリカも台湾防衛に乗り出した。このように、米国の対東アジア政策が「巻き返し(roll back:従来ソ連の影響下にあった地域を親米政権の地域に変えていく)」に発展したことに注目し、そのために朝鮮戦争を利用しようとした見方。
③修正主義主観に基づく新たな朝鮮戦争研究
参照:
朝鮮戦争の起源を、1950.6.25に限定せずに、1945年8月以降の米ソ分割占領や、それ以前の植民地時代の左右の対立にまで遡る考え方です。
すでに存在していた左右の対立の内戦状態を米ソが増幅させたという解釈です。
朝鮮半島内部における左右の対立を米ソの分割占領が増幅することで、結果的に南北分断体制を帰結させたのだが、そうした南北分断体制を「克服」するために、ソ連スターリンと中国毛沢東の承認を得て、金正成が軍事的な方法による南北統一を企図した結果が、朝鮮戦争の勃発であったと見るべきであろう。
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