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「眠れない」を体験してみると(不眠は人生のリスタート)

夜、ふとんに入ったとたんに眠りに落ちる、という人には想像のつかない、「眠れない」という状態がどういったものなのか、体験を記録しておきます。

ふとんに入り、目を閉じます。
寝つきのよい場合はここで意識がなくなりますが、眠れない場合はその後も意識があります。
そこで、眠るという行為はどういう行為だったか一生懸命思い出そうとします。とりあえず呼吸をゆっくりにしてみます。深呼吸のように。

深呼吸をずっと繰り返しますが、意識は変わらずあります。
部屋を暗くしているはずなのに部屋がぼうっと明るく感じられます。
リモコンのLEDのかすかな光が光っているのが見えます。
そこで遮光のためアイマスクをつけてみます。

今度は、日中は気にならない物音が気になり始めます。
隣の部屋で水道をひねる音、外で誰かが話している声、遠い車の音。
そこで耳栓をつけてみます。
そうすると自分の心拍が大きな音で聞こえるようになります。
ドクドクドクドク
余計落ち着かなくなります。
聞こえてくる心拍を穏やかにしようと、さらに呼吸をゆっくりにしてみます。少しはまともになりました。真っ暗で心拍の音しかしない中で、息をひそめて深呼吸を続けている自分の感覚が感じられます。

布団の中に落ちていくようにいつの間にか眠りに落ちて、気づくと朝になっている、という幸せなシミュレーションを繰り返してみますが、
今までどのように眠れていたか思い出せません。
お昼過ぎの電車の中でうつらうつらしながら
くらっと意識が消えるあの感覚が来れば眠りに落ちるはずですが、再現しようとしてもそうなりません。

最初の方は頭を空っぽにしようと努力しているのですが
段々様々な過去の記憶がよみがえります。
幼稚園のときに話しかけられた場面、小学校の通学路、中学校の非常階段。
特別な出来事ではないのに、なぜか人生の記憶の中でアルバムのように切り取られた場面が頭の中に浮かんできます。そのときどきで気になっていた人も思い浮かびます。あの人は今どうしているのだろうか。

日中は、仕事をしたり、家事をしたり、あるいはスマホでニュースをチェックしたり、少しでも時間ができたら、何かをしようとしています。

でもこの眠らなければならないという局面では、横たわる以外に何もできません。体を動かすことはできなくて、真っ暗な中で、目も閉じて、心拍以外の音もなくて、でも、意識は消えず、過去の記憶と思索の中を彷徨います。

きっと今時計を見ても、さっきから30分も進んでないのだろうと予想がつきます。携帯のブルーライトを覗き込むよりはこのまま暗い中でがんばったがよい、と時計を見ることをあきらめます。

羊を数えようとしますが、思い浮かぶリアルな羊は大きくて、どうしてもその羊が柵を飛び越えるところを想像できません。
そこで、これまで自分が見た心地よい風景を思い出してみます。温かい海に浮かんでいたときのこと。でも思い出す風景はひと時で長くは続きません。
意識を向ける対象がなくなると、今やっていることや自分のことを考え始めます。自分は今何をしているのか、何のために眠ろうとしているのか、明日起きてやろうとしていることにはどれだけの意味があるのか。自分がすることの意味がそもそもあるのだろうか、これから何に向かっていけばいいのか。

ふと、過去の友人の記憶とともに、懐かしい歌手の曲のメロディーがよみがえります。そういえばこの曲名は何だったかと気になり始めます。
そこから順番にその歌手の歌った曲を思い出していきます。ある曲は思い出せて、ある曲はサビの部分だけ、曲名だけ思い出せるものもあります(数えきれないくらいの名曲を出している歌手です)。曲と歌詞の思い出し作業に没頭していると、自分がやっていることは意味があるのかといった意識は自然と消えていきました。歌の思い出し作業は、自分から意識を遠ざけるにはよいかもしれません。世界的に羊を数えることが推奨されているのは、眠れないときに羊以外のことで思い悩まないようにするためだと気づきます。

この日は結局別の方法で入眠しました(次のノートで書きます)。

不眠体験をふりかえって思います。日中のように身体を動かすことも、眠りで意識を消すこともできない状況で頭に浮かぶことは、これまでの人生で重みをもって沈殿してきた記憶かもしれません。これからどれだけそういった記憶を増やしていけるのか気になります。

そして逃れようのない意識の中で思い悩むことこそ、自分の最期の瞬間にもふとんの中で考えることかもしれません。今は、長い夜の後も、幸いにして朝がやってきます。悩んだことを人生に反映させることができる時間がまだあるのです。