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映画『オッペンハイマー』を見て 

noteを初めて、いざ何かを書こうと思っても何を書けば良いかわからないし、何を書こうと思っていたこかを忘れてしまった。ということで、最近見て観て面白かった映画の感想でも書こうと思う。

少し時期を逸した感じは否めないが、話題沸騰中のC・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』について書きたいと思う。本作は非常に面白かった。個人的にはここ一年で一番面白かった。 


これは反核・平和の映画なのか?

本作の主人公は「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーだ。この映画では彼が原爆開発を成功させ、そして、その後レッドパージによって公職から追放されるまでの半生を描いている。核兵器と聞いた時に、21世紀の現在において、そしてとりわけ日本において核兵器と共にある概念としての「核廃絶」や「平和」、「反戦」というものが浮かぶだろう。

では、そのようなテーマは本作のテーマだっただろうか。おそらく答えはノーである。本作はあくまでオッペンハイマーの伝記映画で、主役はオッペンハイマーであって原爆ではない。原爆は壮大な舞台装置にとどまる。本作のテーマは人類を滅ぼせるプロメテウスの火たる原爆を開発してしまった科学者の苦悩というところだと思った。

しかし、一方で、いまだに多くのアメリカ人が考えているように、核兵器を戦争を終わらせた画期的な兵器として描いているかというとそうではない。核兵器に関しては一貫して否定的な考えがあったと思う。核兵器への恐怖というものがこの映画の、特に映画前半の通奏低音になっていた。特にトリニティ実験のシーンは恐ろしかった。遂に人類は全てを破壊し尽くすことのできる爆弾を作ってしまったのだ、という恐ろしさがあった。

つまり、この映画は反核・反戦の映画では断じてないが、核兵器は人類が持つにはあまりに危険で、廃絶されるべきだ、というある種の共通理解を前提としているようには感じた。しかし、その共通理解は作中では書かれないどころか、むしろ真逆の考えを主張する人物が多く登場する。そのため、この作品に対し「核兵器の被害を軽視している」という批判をする人間がいることも理解できる。


ヒロシマとナガサキは描かれなかったのか?

本作は米国では昨年、既に公開されていたが、日本においての公開は見送られ、今年の4月にようやく公開された。それだけ核兵器というものは日本にとってセンシティブなテーマなのだろう。

そして、本作が公開された後に新聞の紙面上などにおいて、「実際の被爆地の惨状が描かれていない」という批判が散見された。確かに映画では被爆地の地獄にも例えられるような恐ろしい状況が一切出てこない。そのような描写がなければ、真に原爆の恐ろしさを伝えることはできないだろう。

しかし、これらの批判はあたらないと考える。というのも、まず、前述の通りこの映画はそもそも反核兵器をテーマとした映画ではないからである。この映画に核兵器の恐ろしさを伝える、という使命は無い。とはいえ、このような回答では批判をしている方々も納得できないだろう。彼らとしては核兵器というテーマを扱う以上、その恐ろしさを十分伝える責任がある、という考えだからだ。

では、果たして本作では被爆地の悲惨さは描かれなかったのだろうか。私は描かれていた、と感じた。そして、直接的に被爆地の姿を見せなかったのは敢えてそうしたのだろう、と思った。オッペンハイマーが被爆後の広島の様子をテレビで見るシーンがある。このシーンのカメラの向きを少し変えるだけで広島の様子は映画に映ったはずだ。しかし、それをしなかったのだ。核兵器の恐ろしさを伝えるのにこれ以上の材料はないというのにだ。これはなぜだろうか。

おそらくノーランは見せないことによって観るものの想像力を刺激しようとしたのではないか、と思う。良くも悪くも現代において原爆によるものであってもそうでないものであってもショッキングな映像に接する機会は少なくないだろう。(その描写が正確かどうかは別として)その中で、核の恐ろしさを伝えるには、それまで漠然と感じていた恐怖のその先を観客に想像させるのが良いという結論に至ったのだろう。実際、原爆により人が死ぬシーンは一度も無いが、原爆投下後のオッペンハイマーの演説のシーンで原爆のような光に包まれて聴衆が消えていくというシーンがあり、そのシーンの方がわかりやすく観客に原爆の被害を想起させている。

つまりヒロシマやナガサキは描かれていたのだ。それはスクリーンの中でなく、我々観客の脳内で。トルーマンが長崎の名を忘れていたシーンに憤りを感じるのは、決して日本人だけでないと信じたい。

日本人として

とはいえ、原爆の被害や威力については、理系の専門家や世界史についてある程度の知識がある人を除けば、ある種原爆に「馴染み深い」日本人でないとわからない部分は多々あるだろう。それどころか多くの専門家よりも日本人の方が原爆との付き合いは長いはずだ。

そんな日本人が最もこの映画を楽しめるのではないかと思える。日本人にとってのオモテの話である広島・長崎への原爆投下のいわば裏話として本作を楽しめるのだと思う。そして、原爆の恐ろしさを小さい頃から伝えられている日本人こそが映画の中で示唆され続けていた原爆の恐ろしさを誰よりも感じることができたはずだ。

この映画は民族のトラウマとも言える原爆投下を「落とした側の目線」を理解する助けになるかもしれない。それは核保有国が核の恐ろしさを理解するのと同じくらい重要なことだと思う。

ノーランの人物描写

ここまで、映画のテーマである原爆のことばかりについて書いてきたが、映画自体についても少し触れたい。

ノーラン監督の前作『ナポレオン』は正直あまり面白いとは思えなかった。戦いのシーンの映像は非常にエキサイティングだったし、あの時代のヨーロッパをよく表現していたと思う。しかし、私にはあのナポレオンの人物描写があまりしっくりこなかった。あの映画ではナポレオンは英雄ではなくただの一人の背が低い男として描かれていた。そして実は小心者であるという風に。しかし、これがどうもしっくりこない。こうした英雄を描く時に大切になるのは二面性なのだと思う。そして、俗物であるというような英雄のもう一つの面を描くには、一方でしっかりと英雄の英雄たる姿を描かなければならないと思う。思うにそこが欠けていた。この映画のナポレオンは彼に必須の要素となるカリスマ性が見えなかったのだ。

しかし、ノーランにカリスマ性のある人物が描けないかというとそんなことはない。『ダークナイト』のジョーカーは悪のカリスマそのものだ。しし、ノーランは全体として細かい人物描写は得意ではないように思える。彼の映画のストーリーの壮大さやプロットの緻密さ、映像の効果的な使い方などは素晴らしい。私が彼の映画を毎作見ているのはそのためだ。では、ジョーカーはなぜ魅力的な人物に映るのだろうか。思うに彼が「得体の知らない」人物だからだと思う。細かい人物描写はそぎ落とし、物語の中に人物を落とし込み。そのことで彼には壮大で緻密で恐ろしいストーリーと一体化した印象が与えられる。そこがジョーカーを魅力的にしている、と私は考えている。

本作において、オッペンハイマーは後半、諮問会にいるから、という理由もあるだろうが、セリフが少ない。話したとしても本人の内面はあまり表に出ていなかった。しかし、彼の後悔、という感情についてはよく現れていた。非常に人物描写は素晴らしかったと思う。ある種の得体の知れない感じが出ていなのだと思う。そして、名声を求める学者としての面と罪の意識に苦しむ人間としての面が二面性としてよく現れていた。やはりナポレオンほどの強烈なイメージがない人物だったからこそ可能だったのだろう。ナポレオンのような超がつく有名人物を描くのは本当に難しいのだと思う。ともあれ、ナポレオンにしてもオッペンハイマーにしても人間くささの表現として性行為を使うのには笑ってしまったが。


とにかくこの映画は映像、ストーリー、人物描写、メッセージ性、どれを取っても素晴らしかった。まだご覧になってない方は、是非、映画館での上映があるうちにご覧になって欲しいと思う。

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