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歴史小説イノベーション「操觚の会」イベント記録2016.10.12
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歴史小説イノベーション「操觚の会」イベント記録2016.10.12

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【第1部】早見俊(作家)講演

早見俊プロィール紹介

【秋山香乃】

早見先生のプロフィールです。岐阜県岐阜市生まれ、サラリーマン時代から執筆をはじめ、2007年から作家業に専念。次々と話題作を世に送り出しました。その数なんと140冊を越えます。今回、生まれ故郷の岐阜市の推進する信長公450プロジェクトのコラボ小説として、歴史ファンのためのウェブサイト歴史航路さんで連載いたしました「醒睡の都 岐阜信長譜」を『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』と改題いたしまして、徳間書店さんから刊行されました。新しい信長像の創造に早見俊先生が取り組まれて、見事に書きあげた一冊です。今までの信長像とはどう違うのか、真実の信長像とはどんな男だったのか、またタイトルとなっている「うつけ世」とはなんなのか。これ、「うつけ、世に立つ」ではないんですよね。「うつけ世」とはなんなのか。など心躍るお話をうかがいます。早見先生、よろしくお願いいたします。

【早見俊】

 ご紹介、どうもありがとうございます、早見です。よろしくお願いいたします。ちょっと私、鬼の霍乱にあってしまいまして、お聞き苦しい点があろうかと思いますが、どうぞご承知おきください。

 私はただいまご紹介いただきましたように、1961年岐阜県岐阜市生まれで、今年で55歳になります。織田信長のことを知らない方はここにはいらっしゃらないと思いますが、早見俊を知っている方は少ないかもしれないので申しますので若干補足させて頂きます。私は2007年より作家に専念とありますが、その前年に、文庫書き下ろしの時代小説で、はじめて商業本として作家業の第一歩を踏み出しました。

 元々、サラリーマンをずっとやっておりましたが、作家志望の者によくあるように新人賞にいくつも応募したのですが、なかなか受賞できませんでした。しかし諦めの悪い質でして、小説もどきのようなモノを書きまして、それを文芸社から自費出版いたしました。当時、書き下ろし時代小説が、佐伯泰英先生を頂点として一つの大きなフィールド、市場になっておりました。そうした時代小説の文庫書き下ろしの出版をやっておられる出版社さんに本と、5つくらい企画書も添えて送ってその結果、幸いにも学研さんに声をかけていただきました。それが私の時代小説を描くきっかけになっております。

 それだけでは食べていけませんので、当初は二足の草鞋を履いて執筆していましたが、もっと書きたいと思い、色んな出版社さんに企画書を送り、営業活動してきました。幸いにも数社が、コスミック出版やベスト時代小説文庫、大和文庫さん、廣済堂文庫からお仕事をいただくようになりました。会社員との兼業は難しくなり、自分ひとりなら食っていけるだろうと思い切って作家業に専念したのが2007年9月のことでありました。それから今日まで文庫書き下ろしの時代小説を中心書いてきました。

 さて今回『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』を出すことになったきっかけを簡単にご説明いたします。私は岐阜県岐阜市出身なので、幼い頃から織田信長という人は郷土の英雄として身近に感じて育ってきました。織田家と関わりの深い円徳寺というお寺があります。その寺の近くで育ったので、余計に信長に対する親近感というのがありました。

 小学校六年生の時に「国盗り物語」というNHKの大河ドラマがあり、高橋英樹が信長を演じて、当時相当に話題になりました。岐阜では信長祭りというのを毎年10月にやっておりますが、高橋英樹が来て、信長祭りの時の武者行列にも参加しました。私もたまたまですが、小学校六年生で鼓笛隊に参加しまして笛を吹きながら、その後ろを行進したのですが、当時はまだあった路面電車がその時は運行せず、行列につながっていたという思い出があります。そんな思い出から、信長をいつか小説に書きたいなと思って来たわけです。

 物書きとしてサラリーマンを辞めて食べていくようになると、やっぱり信長を書きたいなと思うんですね。でも信長は歴史上、大変な大スターで、小説、舞台、映画、ドラマで数多くの作家が書き、多くの役者が演じております。戦国小説というよりは、信長小説という一つのジャンルが出来るほどの人気者ですね。その中で新たに信長を書くとなるとこれはよほど斬新な切り口かあるいは新しい視点が必要だぞと編集さんに言われました。それとやはり有名作家でないと駄目だと。ようするにお前のような無名作家が書いても駄目だぞってことをはっきりとはおっしゃいませんでしたが(笑)。卑下ということではなくて、それぐらい信長という人物を真正面から小説として取り組むには大変な困難が伴うと相当な悟でやらなきゃ駄目だというのを言いたかったのだと思います。

 以来、諦めたわけではないのですが、変化球的にコスミック出版で『よわむし同心信長』という、信長の霊が八丁堀同心の心に乗り移って、信長的な発想で事件を解決していくっていう時代小説も書きました。

 その後、中央公論社から『常世の勇者 - 信長の十一日間』という、信長が尾張から美濃を攻めるその決断をするまでの11日間にしぼった長編を刊行することが出来ました。私なりにそれで信長を書けたなと思っていまいた。

 すると今度は徳間書店さんから「歴史行路」というウェブサイトに参加しないかと誘われました。ついては信長を書かないかというのが、本作執筆の背景にあります。本の帯に「信長公450プロジェクト」マークがありますが、これは織田信長が岐阜に入場して、今年でちょうど450周年という意味です。岐阜市は市を上げて町おこし「信長公450プロジェクト」という企画を打ち出しました。その一環として、岐阜時代の信長を主人公とした小説を歴史行路で連載し、徳間書店で書籍化し、岐阜市がバックアップするというコラボをやらないかというお話をいただきました。ぜひ参加したいとお引きうけし、昨年6月から今年の5月まで1年連載、全面的に改稿して、今月、刊行にこぎつけた次第です。

 この作品を書くに通じて岐阜市の市長さんとか市役所の方とかあるいは学者方ともお会いして色々とお話したんですが、岐阜と信長をつなげるイメージを持つ人は意外に人は少ないんです。私は織田信長というと岐阜とすぐ浮かぶんですが、他府県の人は岐阜と信長が一致しないという方が多いです。

 桶狭間の戦いに代表される颯爽とした若武者・信長、あるいは安土城以降の、天下統一事業を推進して旧体制を破壊していく信長というのが一般にイメージされる信長像だと思います。その中間にある岐阜時代の信長が知られていないことを、岐阜市の方も私も非常に残念なことだと思っております。そこでこの作品では岐阜時代の活躍を書きました。

 簡単に信長の略歴をここで繰り返します。私が大きなターニングポイントと考えているのは、1560年桶狭間の戦いから二年後です。この時、信長は徳川家康と同盟しまして、美濃を本格的に攻めるようになっていくわけです。

 一般的に戦国大名というのはまずおのが領土を守るというのが第一に大事なことです。で、続いて領地を固めてから、新たな領土を拡大していくというのが普通の戦国大名です。

 ミスター戦国大名とも言える武田信玄の例を引くと、典型的です。まず甲斐一国を支配下においてから、駿河や相模は、今川・北条という強大な勢力がありましたから、そこには向かわず、統一勢力が無かった信濃に向かっています。信濃の諏訪から徐々に一国を制覇していくわけですね。そして約20年かけて信濃をとっております。まず行動原理として、自分のところよりも弱い土地、弱い勢力を侵食していくというのが、ごく常識的な戦国大名の動きなわけです。

 ところが信長だけは、まったく違う発想で動いています。それがこの徳川家康との同盟、美濃攻めへの攻撃という戦略です。

 桶狭間で勝ってから今川家は混乱しております。三河は徳川家康が帰ったとはいえ、まだまだ統一的な勢力下ではありません。普通の戦国大名であれば、三河を攻めるんですね。三河こそ領土拡大の絶好の場であったわけです。

 事実橋頭堡として三河の刈谷城主水野信元、徳川家康の生母於大の方の兄は、信長についておりました。桶狭間の戦いの時には信長について今川と戦っております。ですから水野信元を尖兵として三河を攻略していくそれが普通の戦国大名の発想です。

 ところが信長は三河には一切向かわず、尾張よりも強大な敵である美濃に攻め込んで行き、美濃を自分のものにしようということに戦力を集中させます。その結果、1567年稲葉山城を攻略して、美濃を制覇し、本拠を岐阜に移し、岐阜城主時代となった信長となるわけです。

 翌年には足利義昭を奉じて上洛。その際に「本圀寺の変」という反抗勢力である三好党の反撃があります。ここに美濃を追われた斎藤龍興も三好党に加わります。以来、信長と反信長勢力との熾烈な争いが行われます。その過程で、有名な「浅井長政の裏切り」や「姉川の戦い」「伊勢長島の一向一揆」「大坂本願寺の挙兵」といった血で血を洗う抗争が続けられます。

 有名な「比叡山延暦寺の焼き討ち」と、反信長勢力が旗頭にしたかった武田信玄の西上もこの時期ですね。

 で、信玄の死で敵勢力のバランスが崩れます。信長は足利義昭を追放、元亀という年号を天正に改元して、朝倉、浅井、三好党を滅ぼすことになっていくわけです。

 そして足利将軍に変わる天皇の守護者、都の守護者となり、伊勢長島の一向一揆を殲滅。「長篠の戦い」で武田の主力を討ち、この年に嫡男の信忠に家督を譲って翌年からは安土に移ります。

 約9年、足掛け10年の間、信長は岐阜城を主として過ごしたわけです。この10年は34才から43才という男盛りです。史実としましては、それまで井口と言っていた地名を「岐阜」と言うに改名しました。古代中国の周王朝が岐山より起こり、殷王朝を滅ぼした故事に基づくと言われております。

 有名な天下布武の朱印を使い始めたのも、岐阜城主になってから。尾張・美濃を合わせたことによって百万石を越える大きな勢力を築いて、天下人としての土台となったのが岐阜城主時代の信長、まさに大きな飛躍台になった時代です。

 この頃の信長はまだ全軍の先頭に立ち、部下を叱咤して合戦に臨んでいます。安土以降は、後の世の人から方面軍制度と言われておりますが、色んな武将に任務地を定めて統括して動かすようになります。光秀だったら丹波とか、秀吉だったら播磨から中国地方といったように。岐阜時代の信長というのは、まさしく戦国武将として一番躍動していた時代であったと言えます。

 そうした事実にたって私が『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』というのを書きました。これからは史実の信長ではなくて、あくまで私が描いた信長です。ですから事実と虚構と入り混じって新しい視点の信長です。実はその大きなテーマを岐阜の市長さんからいただいたんです。

 信長は「破壊」のイメージが強いけれども、実際には非常に文化を大事にした側面があるから、文化人信長を描いてくれないかと。本作では、それがテーマとなりました。

 『うつけ世に立つ』という題名は、ご紹介いただきましたように「うつけ世」で区切ります。うつけというのは空っぽとか空虚とかといった意味です。信長は奇矯な行動をしていたとき、あいつは中身が空っぽな馬鹿者だよということで、世間一般から「うつけ者」と言われます。けれど信長の視点では、儀礼とか体面とかといった空虚なものを重んじるこの世こそが、「うつけ者」ならぬ「うつけ世」ではないかと。そんな世の中を俺は打ち破り、本物の世をつくってやるぞと信長は意気込んだのではないかと。そういう意味を込めて『うつけ世に立つ』というタイトルになりました。

 もう一つ、テーマとして文化人か魔王かという風に取り上げております。文化人と言っても、今日の文化人とは違うわけで、「文化の保護者」という意味ですね。信長は自分で茶を点てたりもしましたが、あくまでも一つの趣味としてで、文化を保護するいうことです。「文化人または魔王」ということをテーマを投げかけてみたんです。

 信長の「文化の保護者」とは何をもって足跡を辿っていったかお話しましょう。岐阜市の教育委員会は、岐阜城の麓館を長い期間かけて発掘調査をしています。すると当時としては考えられないような文物や遺構が出てきました。特に京都の東山文化に影響を受けた、庭の造作があります。京都の銀閣などの寺院の庭を参考にした庭造りが、信長によってなされていたということが発掘調査によって判ってまいりました。後の金箔瓦、安土城や秀吉の大阪城などで好んで用いられた金箔瓦も、すでにこの岐阜時代から使われております。

 私は岐阜で生まれ育ちましたので、「鵜飼い」は当たり前のようにあるんですが、鵜匠が鵜を操って鮎を取るこの漁法を、信長は非常に保護します。そもそも「鵜匠」と名付けたのも信長ではないかと言われております。鷹匠に対する鵜匠ですね。信長は後に「鵜飼い」をイベントとして接待に使ったりしているんですよ。

 また策彦周良という京都五山の天龍寺の住職がいます。彼を信長は尊敬し、そこから中国文化への憧憬があったことが窺われます。策彦周良は、明国の皇帝に二度渡ってしており、皇帝にも謁見しております。明国の文化に詳しい知識人だったんですね。信長は上洛してから度々、策彦周良を訪れ、話を聞いております。

 また中国文化に対する興味と同時にキリスト教を保護するわけですね。それはキリストの教えに従ったわけではなくて、キリスト教徒を通じた西洋文化に興味を持ったわけですね。

 信長は古い日本の文化を保護すれば、中国文化にも憧憬を持ち、西洋文化にも興味を持っていると。信長は好奇心が異常に強い人だったと私は思います。その好奇心によって色んな垣根が取り払われるわけですね。中国かぶれとか古臭い京都の文化なんかもまったく見る価値がないというわけじゃない。興味を持ったら垣根・偏見を取っ払って、直にそれを自分で吸収していくという点では非常に好奇心の強い人だった

 一方、魔王——文化の保護者と正反対の顔も信長は持っています。「比叡山延暦寺の焼き討ち」「上京の焼き討ち」ですね。魔王と文化人を両立させているのが信長であると描いております。

 さてここで『うつけ世に立つ』の登場人物を紹介します。もちろん、主人公は信長ですが、それに対するヒロインというか女性が帰蝶です。濃姫とも呼ばれ、信長から離縁されたとも本能寺まで添い遂げたとも言われたりしております。

 私は斎藤道三の死後、帰蝶は離縁されて、美濃に戻って、信長が岐阜城を取ってから再会するという設定で書いています。

 離縁された帰蝶は、信長に対する執拗な恨みというのを抱き続けて、信長の前に敵として立ちはだかります。

 そんな帰蝶に対して、お鍋の方というヒロインもいます。彼女はドラマとか小説でも取り上げられている信長の側室です。信長はお鍋の方には、素直な自分をさらけ出せるということで、この二人のヒロインというのを対照的に描いてみました。

 さて小説ですから、史上の人間だけではなくて、架空の人物も出てきます。そのうちの一人が、弥吉という武将を目指す少年です。彼は織田家の雑兵によって、美濃攻めの際に父親を殺され、その恨みを持ちつつ、鵜匠を目指します。

 もう一人の少年も出てきます。彼は安楽庵策伝といいまして、これは歴史上の人物です。安楽庵策伝というのは、今日、落語の祖と言われております。なぜ落語の祖と言われているかといいますと、寛永年間に、安楽庵策伝は京都所司代だった板倉重宗の要請で、「笑い話」を編纂しています。それは「醒睡笑」と呼ばれる一冊の本にまとめられました。醒睡というのは難しい字ですね、酔いが覚めるぐらいにおかしい話っていうことを安楽はいいたかったわけですね。多くの笑い話が収められているんですが、今日の落語でいえば、「平林」とか「子ほめ」の原型が見られます。

 その安楽庵策伝は非常に長生きをしまして、80過ぎまで生きます。彼は織田信長の赤母衣衆であった金森長近の、歳の離れた弟でもあるのです。息子といっていいぐらい、歳が離れている弟でした。

 で、この「醒睡笑」の中には、本能寺で40年以上前に死んだ信長公に関して、「信長公はこうおっしゃられた」「信長公がこんなことをされた」という、信長にまつわる話を17話も書いております。

 信長との直接的な面識があったのかどうかはわかりませんが、信長に親しみを抱いているということが安楽庵策伝の「醒睡笑」からはうかがえます。親しげに書いているわけですね、

 安楽庵策伝が、落語の祖と言われることによって、岐阜市では毎年落語のコンクールをやっています。桂文枝師匠の先祖が岐阜出身で、菩提寺が岐阜にあるのだそうです。桂文枝師匠と岐阜の市長が話しまして、毎年全日本学生落語選手権、策伝大賞を開催しています。

 そうしたこともあり、ぜひこの落語の祖を、信長の小説にも絡められないかと市長から要請をいただきました。最初はえーっと思ったのですが、意外と安楽庵策伝が信長に親しみを抱いていたというのがわかりまして。合わせて本当に偶然だったんですが、赤母衣衆の金森長近の弟であったわけです。

 そこで私のフィクションですけれども信長と安楽庵策伝の出会いから、彼の成長をこの作品では描いております。

 岐阜時代の信長、庶民から武将、敵将、それから将軍とか公家とも分け隔てなく交わった信長というのを『うつけ世に立つ』で書いています。

 弥吉と安楽庵策伝とか庶民を書くことで、信長の素顔かどうかはともかく、武将や敵に見せる顔ではない、信長の一面を描出できたのではないかなと思っております。

 もう一人、私がターゲットとして注目させたかったのは斎藤龍興なんです。彼は斎藤道三の孫にあたります。父親の斉藤義龍は、父親である斎藤道三を戦で破って殺した男として知られています。けれども義龍は35歳で死んでしまいました。そのため一般の知名度は低いんですが、七尺近い大きな体と美濃の強大な軍勢を一つにまとめあげる武将としても非常に優れた人であったようです。

 その斎藤義龍が35歳の若さで急死したために、斎藤龍興が後を継ぎました。彼は14歳で家督を継いで国主になったんですけど、非常に評判の悪い人物です。毎日、酒宴をして女を侍らしてですね、宴に明け暮れたとか。14歳でそんなことやるとは思えないんですけれども、後々そうした悪評が出るぐらい、愚将として認識されています。

 その斎藤龍興の有名なエピソードに、竹中半兵衛による稲葉山城の乗っ取りというのがあります。半兵衛によってわずか17人で難攻不落の稲葉山城を乗っ取られたのです。以後、龍興は後に竹中半兵衛に諌められて、城を返してもらって反省して、美濃国主として美濃の経営にあたりますが、信長によって20歳の時に美濃を追われます。

 追われてから伊勢長島に行って、それから三好党に加わって、1573年の越前征伐、信長による朝倉征伐の過程で討ち死にしたと伝えられています。ただ龍興が美濃から追われて越前で死ぬまでの記録がほとんど残ってない。私もさんざん資料をあたって、歴史資料館とか学者の方々にも聞いたんですが、龍興の美濃を追われて後の生涯はほとんどわからない。

 なら私が書いてもかまわないんだろうという小説家的発想で、龍興を一つ大きな信長に対する敵として描こうではないかということを思いました。これは非常に心楽しかったです。駄目だった龍興が、美濃を追われることによって武将として目覚めていくという姿。

 そして信長に対抗していくという斎藤龍興。これまでは単に愚将であったのですが、27才で死ぬまで、最後まで信長に刃を突きつけた男として私なりに描いたつもりであります。

 岐阜時代の信長というとあまりイメージなかったと思いますけども、「姉川の戦い」「長篠の戦い」といった歴史の教科書に乗っているような戦いも多くあった時代です。それが岐阜と結びついていないのが、あまりにも岐阜の人間としては寂しい。安土以降の信長のイメージが強烈すぎるのだと書き終えてから改めて思った次第です。

 信長はですね、自分の領国内で極力戦をしないっていうことを父親から叩き込まれてました。そのため美濃をほとんど戦場にしていません。戦うときは常に敵地で戦ってます。美濃の一部恵那を武田に掠め取られたことはありますが、岐阜を中心とした美濃、あるいは尾張には敵勢を入れておりません。それぐらい信長はホームグラウンドを大事にしたわけです。

 信長が尾張一国を統一したのは26才。本能寺の変で死んだのが49才。その間、約30カ国を領国化してます。太閤検地以降の石高で言うと800万石ほどの勢力を得たわけですね。

 この時期、色んな法を制定していくんですけれども、信長は尾張と美濃に関しては、本国という風に言っております。あとの国は分国と呼んでおります。それぐらい信長にとって尾張と美濃というのはあくまで自分のホームグラウンドでした

 比叡山延暦寺を焼き討ちしたり、浅井、朝倉や三好党と激しい血で血を洗う合戦を繰り広げたり、伊勢長島の一向一揆を殲滅したり、さんざん血で血を洗う戦いをしますが、岐阜に帰ってきてほっとすると。鵜飼いを楽しんだり、鮎を食べたり、鷹狩りをしたりのくつろぎの場ではなかったかなと言う風に思っています。

 信長という人は執着しないんですすね。常に目的のために最善の場所を確保していこうとする。岐阜から安土へ行くと、安土の方がより天下統一の事業をすすめられるからという、岐阜を信忠に譲ったのも信長のより飛躍をしたいという、とどまるところを知らない大きな野心というか、そういう面があると思います。

 以来、織田家の諸将は信忠のことを殿様と呼んでいます。信長のことは上様というふうに呼んでおります。ですから織田家の当主は信忠になって、天下の主は信長という住み分けができていったんだと思っております。秀吉が有名な中国大返しの最中、攪乱戦法をします。光秀に味方しそうな土豪たちに向かって送った書状の中で、「信長と信忠は生きている」というのを盛んにPRしております。その時に信忠のことを殿様、信長のことを上様と書いていました。織田家臣団の中ではそのように呼んでいました。

 本作では、そんな信長の岐阜時代を、天下人へ飛躍台として描きました、壮年の信長の姿を私なりに描いた『うつけ世に立つ』をぜひぜひお読みいただきたいと思います。どうもありがとうございました。

【第2部】パネルディスカッション「小説ドラマにおける信長像の変遷」

秋山

皆さん、おまたせいたしました。第二部パネルディスカッションに移ります。テーマは小説ドラマにおける信長像の変遷です。パネラーの皆様、蒲原二郎先生、鈴木英治先生、本田龍一先生、さらに先程、ご登壇いただきました早見俊先生にも引き続き出演いただきます。先生方、よろしくお願いいたします。まずは自己紹介をお願い致します。

蒲原二郎

どうも蒲原二郎と申します、いつもお世話になっております。今年は文庫本で『真紅の仁』という真田丸の小説を書かせていただきました。一生懸命調べたので、監修の平山先生からもお褒めいただいて、またご著書の方にも調べたことを引用していただきまして、とても名誉なことだと思っております。今日はよろしくお願いします。

鈴木英治

鈴木英治と申します。今日は正座しています。僕は昔は酒をガブガブ飲んでいたんですけれども、三年半ほど前に夫婦喧嘩の後に止めまして、それから正座している方が胡座かくより楽になってしまいました。なんか体は不思議ですね、本当に酒は毒ですよ。今日は徳間書店の本を脱稿したばかりです。もの凄い勢いで50枚ぐらいを一気に書いたのですが、すごい雑なんですよ。雑なんでゲラになったら直そうと。そういう感じです。今日はパネルディスカッションの題材に関して、私はTV見ないもんで知見がないんですよ。秋山香乃がTV好き過ぎて仕事しないで観るんで。そこで買わないという。その結果、結婚してからTV見てないですよ。それ以前のドラマも結構忘れてまして。パネルディスカッション的に不安がいっぱいですが、よろしくお願いします。

誉田龍一

誉田龍一と申します、よろしくお願いいたします。今日は織田信長についてお話をしろと言われて。私はTVドラマはメチャクチャ見るほうです。それで引っ張り出されたんですけれども、第一部の早見先生のような詳しい学術的なお話はできませんけれども、よろしくお願いいたします。

秋山

ありがとうございます。それではさっそく信長像の変遷ということで、ざっとお話を早見先生、お願いいたします。

早見

ざっと画面をみていただければ、大河ドラマでもこんな方たちが演じてきているわけですね。映画、ドラマではもっと無数の俳優が演じております。天海祐希が演じた信長もあります。すべて二枚目ですね。例外はハナ肇、映画『ほらふき太閤記』でした。ただ『ほらふき太閤記』のハナ肇の信長も、非常に頭の切れる人物として描かれております。藤田まことも演じております。『影武者織田信長』というドラマと、『てなもんや一本槍』という『てなもんや三度笠』の後番組で演じているんですが、誰も多分知らないでしょうけれども、いつでも二枚目が演じているのが、織田信長のキャラクターです。ご存知のように『信長公記』『甫庵信長記』、ルイス・フロイスの『日本史』などで描かれたのが、初期の頃の信長です。特に『甫庵信長記』ですね、これが非常に後年、大きな影響を与えました。桶狭間における奇襲とか、長篠の鉄砲の三段撃ちとか、今日ではほとんど否定されていることが、信長像として伝わったことに大きな影響を与えています。江戸時代には信長は良い印象では書かれていませんでした。明治以降では、勤王家としての信長となったというのが、信長像の大きな変遷でした。という訳で、誉田さん、誰の信長がよかったですかね。

誉田

一般的にこの話題を振られると、高橋幸治と言われますね。高橋幸治といえば『黄金の日日』ですね。現在、DVDで見られますが、実際に高橋幸治さんの信長を生で見た人はおそらくあまりいないんじゃないかと。僕は子どもの頃観ました。で、実は高橋幸治さんは二回目なんですね。その前に『太閤記』で出てるんですよ。『太閤記』で高橋幸治さんと緒形拳さんのコンビで、信長と秀吉をやりました。それを『黄金の日日』でも同じコンビで演じたんですね。で、信長=高橋幸治と言えば正解という感じなんです。ネットでも高橋幸治バンザイみたいに書いているから。確かにあの人の信長は格好良くてちょっと上から目線なんですね、信長っぽいんですけども。最近では、特に渡哲也さん以降から色んな信長が、大河ドラマに出てきましたね。そちらの方々の方が荒々しさが出てる感じがします。というか、高橋幸治さんは少し真面目過ぎる感じがするんです。僕が一番好きなのは吉川晃司さんですね。吉川晃司さんはご本人も怖い人なんでしょう、喧嘩とか強そうじゃないですか。ホントに信長ってこんな感じだろう。次やったら殴るとか。実際、殴るシーンとか蹴っ飛ばすシーンが多いです。あの人すごく上手なんです、喧嘩のシーンが。そういうこともあり、吉川晃司さんが僕はいちばん好きです。で、YouTubeでもあるから観ていただきたいんですけど、吉川さんは着物が格好いいんです。色が橙色と言うか臙脂色と言うか赤とまでは言いませんが、そんな信長が平気で出てきますから。他は案外地味ですよ、反町さんとかも地味でしたから。本人はキャラが立っている人なんですけれども。そういう意味では僕は吉川さんです。すいません、長くなって。

早見

鈴木英治さんは、役所広司っておっしゃってますね。

鈴木

先に言っちゃ駄目でしょ(笑)。この間、名前出てこなくて。あの僕はね、役所広司しか知らないんですよね。まぁほかも観てますが、覚えるているのが全然なくて。高橋幸治さんは確かに覚えてますね。『黄金の日日』はずっと観ていたんで。大河でずっと見通した最後の作品が、『黄金の日日』なんです。

早見

『太閤記』

鈴木

『太閤記』、ああそうそう僕が大学生の頃だったような記憶があるんですけど。僕はそれが、あ、すげぇ信長って思いましたね。そんな感じです。

早見

あの、役所広司が演じる同じ無名塾で、隆大介がね、影武者でね、信長を演じましたけど、その時、役所広司も出てたんですよ。影武者に。どんな役かわかんないんですけど、あれが昭和57年ですか徳川家康は。それが出世作になったんですね。よく言われているのは沢田研二が本来は信長を演じるはずだったんですが、当時、沢田研二は人気絶頂でスケジュールがどうしても空かなくて、で役所広司が抜擢されたと。でその抜擢に見事応えたと。その後は宮本武蔵やったりね、大スターへの道を進んでいきますね。変わったことを言いそうな蒲原さんお願いします。

蒲原

そうですね、僕に言わせるとどいつもこいつもクソ野郎ですね。僕は史料を大事にする方で、特に肖像画をもの凄いカーっと見つめるのが好きで。僕に言わせてもらえると、もし信長をやらせるならパックンマックンのパックンですね。理由はですね、信長っていうのは、やたら鼻がでかいんですよ。肖像画をみていただければ判りますが。当時の人も信長を凄いと思った理由は、うわ、鼻デカイ、めっちゃこいつ鼻でかいんやなということで、結構、びびったと思うんですよね。この鼻のデカさっていうのが、信長に天下を取らせた唯一の理由なんじゃないかと。クレオパトラみたいなもんです。鼻がデカイってことはチンコもデカイっていう

(ベルの音)

鈴木

最低でしたね。

蒲原

いや僕を呼ぶのはオカシイんで。同じ静岡県人とは思えない。

鈴木

そうなんですよ、静岡県人なんですよ。

蒲原

東部と中部で、中部はシモネタ許されているんで。

鈴木

東部はシモネタ得意じゃないんで。

早見

あの肖像画を見ると確かに信長っていうのは、鼻がでかい。というより目鼻立ちが当時の日本人としてはたっていますよね。ルイス・フロイスなんかも具体的に信長の容貌を描いておりますが、まさか鼻に着目されるとは、いかにも蒲原さんらしくて素晴らしい

蒲原

ホントですか、フフフ。

早見

いや女性にはまずかったと思いますよ。それでこの蒲原さんはドラマは観てたわけですか? 大河ドラマとかは。

蒲原

そうですね、キムタクの信長だけは観ましたね。ホントにキムタクらしいと、ぱねぇぱねぇって……いい感じだったと思いますよ。あの織田信長のぱねぇって感じが。終生、信長ってぱねぇって感じで通してますよね。桶狭間なんかもぱねぇで押し通しちゃってますよね、ホントだったら今川にしてみたら、ここ攻めてこねぇやって思っているところに尾張のヤンキーみたいな信長が、その尾張のぱねぇって感じがヤンキーなんですよ、間違いなく。今川義元にしてみたら、あいつ来よるでと思ったらぱねぇあねぇって来てるんで。そういった感じで言うとキムタクが一番ですね、僕は。

鈴木

キムタクしか観てないってのはまぁねぇ(笑)。

蒲原

DJやってましたよ、信長が。

早見

毎年信長学フォーラムっていうのが岐阜市主催でやっておるんですけど、今回は東京のサンケイホールでやりまして、ゲームで描かれる信長のパネルディスカッションがありました。その中で様々な信長が紹介されたんですが、アニメとかゲームで、織田信奈ですかね、女性の信長とか、あるいは現代に犬になった信長とか。およそオジサンにはついていけない信長の描かれ方をされております。パネルディスカッションの方々もおっしゃっていたんですが、秀吉とか家康ではありえないことが、信長に対してはなされていると。アニメやゲームでとんでもないキャラクターになったりするということは、いろんな想像をかきたてる人物ではなかったかと思います。ですからキムタクが演じたり、その時々の人気俳優が演じるというキャラクターが今後も続けられると思います。誉田さんどうですかね、今後の信長像っていうのは。

誉田

さっきの大河の話に戻るんですけどね、一番良かったなぁと思うのは、例えば反町さんがやった信長は、僕、ものすごく大好きなんですよ。みんな反町さんには色々言いますが、「であるか」というのは反町さんが流行らせましたよね。「であるか」(ニュアンスを変えて)「であるか」ってずっと言ってましたよね。ああいう風に織田信長で流行り言葉が出来るような主人公。あれは実際に信長の口癖だったんですよね。で、反町さんはすごいなと思ったのは、全部雰囲気を変えていってるんですよ。役者さん大変だと思いますよ。台本もらったら台詞半分ぐらい「であるか」なんですから。出てきたら「であるか」しか言ってないんですよ。だからその度に変えるんですよ、雰囲気を。でこれYouTubeであると思うんですけど、本能寺の変のときを観てください。織田信長が寝てるんですね。これはもう本能寺の変のパターンなんですけど、織田信長が寝ていたら外で喧嘩が起きた。うるさいんですね。光秀が攻めてきているからなんですけど、これって史実で信長公記に書いてあるんですよ。で、外がうるさいから見てこいって言って、その音がしばらくすると半端ないと。で、これはどうも喧嘩と違う、敵襲だと。で、まず家来が来るんですよ、「殿、敵襲です」って。そしたら「であるか」ってまず言うんですね。最初に。その次、バババッと家来が来て「敵は明智光秀でございます」っていたら、「であるかぁ(怒)」って言って。この演じ分けは大変だと思いますよ。で、すごいでしょあの人。全部、「であるか」だけで演じてるから。ある意味で役者さんとして最高ではないかと。新しいその言葉とかをみんなで流行らせていこうと。私はそれほど知らないですけれども、口癖などを流行らせてくれる信長さんを、ぜひ小説とかドラマとかでやってほしいですね。

早見

ということは、漫才師でいうとビートきよしが一番すごいと。ずっと「よしなさい」だけで。

誉田

ハハハ。でもホントに「であるか」は覚えてます。反町さんはほんと役者ですよ。

早見

私はね、ドラマとか映画とかね、良さが分かんなくて。どれ観てもいいなと思っちゃうんですよ。木村拓哉が演じたらいいなと思うし、江口洋介もいいなと思ったり、太閤記は本能寺の変だけDVDになっています。一回だけ放送分が残っていまして。有名なエピソードとしては、高橋幸治の信長に人気が集中したため、8月に放送予定だった本能寺の変が、10月までずれ込んだという。その一回分だけDVDに残っておりまして、高橋幸治の勇姿を観ることが出来る。

誉田

本能寺の変と言えば、反町さんの回、ぜひ観てください。おそらく初めて描かれたんですが、明智光秀と信長が正対するんですよ。明智がやってきて喋るんですよ、お互いに。で光秀やってるのが萩原健一さんなんですね。ショーケンがあの声でよく叩かれるんだけども、僕はわざと甲高い声をあげていると思うんですよ。「この度のわれは、私利私欲であらず、天下国家のため」とか言うんですよね。それはもうキンキン声で言うんですよ。で、反町信長とやり取りします。それで最後にね、光秀のほうが「お前の首をもらう」って言うんですね。あの信長に対して。そしたら信長・反町さんが、カッコいいんですよ。「わしは死なぬ」って言うんですよ。で、五分後には踊って信長は死んでいくんですね、若い頃に観ていて、あれってオカシイんじゃないって思って。「わしは死なぬ」って言いながら五分後には踊って死んでましたからね。「人間五十年」とか。ちょっとおかしいと思いましたね。ぜひ観てください、YouTubeにあると思いますから。

早見

ココまで言われましたらね、今日あたり観ないわけには。あの役所広司は、本能寺の変のときに余りにも周囲の炎の勢いが、切腹の時に凄すぎて、途中でNGになってスタジオから飛び出していったらしいですね。スポーツ新聞に書いてありました。

誉田

あの人だけ、ホントに刀を突き立てるシーンがあるんですよね。他の人ってだいたい踊りながら火がパーッと来て終わるんですけど、役所広司だけこうやって斬ってグーッとなりながら、そのシーンありますね。

早見

本能寺の変まで話が及びましたが、結局、信長の描かれ方の違いって言うと、本能寺の変の描かれ方の違いっていう感じになっていくわけですね。ちなみに江戸時代の芝居で演じられた信長ってのは、暴虐非道の殿様なわけですね。暴君、暴君信長に対して光秀が立ちがるっていうパターン。それが絵本太功記であったり、時今桔梗旗揚げであったり、まぁ芝居では演じられてきたわけですね。で、明治以降、信長というのは軍神として扱われたり、非常に軍司令官として優れた人物であったという描かれたりしました。そして戦後では合理性とか革新性というのが評価されて、革命家としての信長というのが描かれていったわけです。信長人気っていうのは私が言うまでもなく、颯爽としたヒーロー、志半ばで倒れた悲劇性、家康や秀吉のように完結した人生ではない。起業家がイメージしたり、政治家が改革をイメージして信長をもちだしたりとかいう、改革者としてのイメージが定着していった。歴史上の本能寺の変の描かれ方も、江戸時代は暴君という、昭和以降は神仏も破壊する合理性というものを文化人たる光秀が苦悩して倒していくという。しかし実は光秀は正反対の人物だったの言うのが現在の定説になっております。光秀の方がむしろ信長に止められるぐらい延暦寺の所領を没収した人物であったということが、判っております。でまぁ反乱の理由は、高度成長のモーレツサラリーマン時代では、秀吉との出世競争に破れたのが原因だったという描かれ方をしたり、低成長時代にはストレスが原因とか。あるいは光秀に黒幕が居たという描かれ方をしております。で、有名な黒幕説の小説としては、山田風太郎の『妖説太閤記』、最近では加藤廣さんの『信長の柩』、朝廷黒幕説っていうのが、「産霊山秘録」。半村良が最初に朝廷を黒幕説というのを打ち立てました。光秀は天皇家を守るヒ一族の優秀な人物。荒廃した戦国の世にあって、朝廷を盛り返す意味で、光秀が信長のもとに派遣され、信長の天下統一事業を助けていく。ところが信長はヒ一族の思惑を超えて、天皇家を滅ぼそうとする。ということで光秀が立ち上がったという説ですね。朝廷黒幕説の最高傑作とも言えるのが、今年の正月にドラマ化になった安部龍太郎先生の『信長燃ゆ』だと思います。さらにはミリオンセラーになった津本陽先生の『下天は夢か』は、改革者・信長に対する旧勢力の信長への反発が本能寺の変だったという描かれ方をします。さて大河ドラマでの本能寺の変の描かれ方というのが、私が大雑把に記憶でまとめまいた。ちょっと間違っている分もあるかもしれません。この中で特に独眼竜政宗が酷かったんですよ。信長登場しませんけどね、ナレーションでね、当時いじめ問題というのが非常に問題になっていて、大河ドラマでナレーションをやるようになったのは独眼竜正宗からなんですよ。その時に本能寺の変をナレーションするときに、信長の強烈なイジメに耐えかねた光秀が立ち上がってっていうそういうナレーションがあるぐらい。ですからその時々の流行によって本能寺の変の描かれ方が変わっていくという典型なんですけど。で、平成四年の大河ドラマ『信長』ではマイケル富岡がストレスが原因で信長を討つと。どんどん仕事ばっかりさせて休む暇がないじゃないかと。信長を討ち取ったマイケル富岡がですね、これでやっと眠れるって言っていましたね。大河ドラマ「利家とまつ」が本能寺の変を描いたときは誉田さんが一押しの反町の信長とショーケンの光秀という。で驚いたのは「天地人」の本能寺の変ですね。吉川晃司の信長です。阿部寛の上杉謙信とですね、信長が本能寺でまみえるんですね。もちろん、幻として出てくるんですね。その辺の面白さを誉田さん。

誉田

面白いっていうか、「天地人」はもともと直江兼続が主人公で、上杉謙信が重要な存在の話なんで。本能寺の変で出さないとしょうがないんですよね。「利家とまつ」のときもそうですよ、最後、反町が死ぬ直前に「犬」とかいって、「犬千代」、前田利家のことなんですが、「犬、後は頼んだぞ」みたいなことを言うんですが、絶対言ってないだろうと。もうそうでしょ、だから全部主人公が出てくるんですよ。

早見

ああ、唯一残っている「太閤記」の本能寺の変のときも、高橋幸治が切腹するシーンで、緒形拳の秀吉が直訴して士官するのが回想シーンとして入れられるんですよね。まぁ要するに秀吉に託したぞといいたかったんだと思うんですけれど。

誉田

やっぱりTVだから主人公を立てないとしょうがないですよね。

早見

信長を主人公にしたのでもね、ストレスで殺されたってのもね。ま、すごい演出なんですけど。本能寺の変っていうのは色んな描かれ方をしているという日本史上の大きな出来事であったということです。まあ、じゃぁ信長って人は同時代の人からはどういうふうに思われていたかっていうことを簡単に書いてみました。豊臣秀吉は、主人である信長のことをどんな点がえらかったんだと聞かれて、「どのような負け戦でも生き残ることができたことだ」と答えた。戦国時代というのはなにより生き残ることが第一ですから、武士道とは死ぬことと見つけたりというのは平和な江戸時代の発想で、当時は武士ではなくて武者ですから、生き残ること、それが信長という人は非常に長けていたと。秀吉は言っております。で、佐竹義宣、佐竹の殿様っていうのは、ちょっと変わった殿様でして、関が原の戦いの時に西軍に与して家康によって転封させられるんですね、水戸から秋田に転封になるんですけど、そこでよく言われているのが、腹いせに水戸城中の美人をみんな秋田に持っていってしまったと。だから秋田は美人ばっかりと

(ベル音)

早見

まぁそれぐらい変わった人だったんですけどね、お酒の席で、家臣から信長、秀吉、家康で誰が一番偉かったかと問われ、「秀吉は信長に勝てない。家康は秀吉に勝てない。秀吉は主家から裏切ってまでして天下を欲した。にもかかわらず信長の生前には謀反しなかった。信長には勝てないと思っていたからだ。家康も同様だ」と答えた。一方、江戸時代は信長の評価は非常に低かったと。新井白石は信長嫌いで非常に有名だったんですが、比叡山延暦寺の焼き討ちは高く評価しています。政教分離というか、現在の政治用語ですけれども、坊主が政治に口出しをするのはよくないというのを信長は比叡山焼き討ちによって知らしめたと。そのきっかけを作ったと。また「今日、国持大名、みな、織田信長の下で身を起こした」とも評価しています。前田百万石といばっていますけれども、所詮は、信長の下で身を起こしたと。まぁ認めてはいるわけですね。でそんな信長像の変遷の仕方、時代時代によって描かれ方が違うというのは、それぐらい人気を保っているということだと思います。いかがですか皆さんの中で、こんな信長がみたいとか、よかったとか

蒲原

僕は静岡県民で、すごい徳川家康大好きです。すると信長格好良く描かれすぎじゃないですかって思うんですね。特に本能寺の変で「であるか」と言っているんですけど、ぶっちゃけた話ですと、「え、誰攻めてきたん、え、だれだれマジで」みたいな。そんな感じで、「え、え」って言っている感じで死んだんじゃないかなというイメージが有るんですけど。どうなんですか。

早見

いや、それはね(笑)。「是非に及ばす」とかね。

蒲原

言ってないですよ、そんなね。誰が言ったんですか。

鈴木

必ず言いますね。

早見

まぁそれが定型句っていいますかね。一つのパターンにもなっているぐらいで。カエサルの「賽は投げられた」じゃないですけどね。大体、歴史ってそういう風に作られていくんですよね。頼山陽の「日本外史」で、川中島の戦いが有名になったわけで、「鞭声粛々 夜河を渡る」という一文が有名になったりとか。「敵は本能寺」っていう風に光秀が叫んだというのも「日本外史」で言っているわけです。実際に言ったかどうかはわかりません。それがあまりにもピッタリだったので、それが後年、定説化していったわけですね。定説化されるっていうのはそれだけ英雄、あるいは悪人は印象を、定説を生みますから。それも伝承と考えればありではないですかね。

鈴木

あぁなるほど。

蒲原

ちなみに家康は天下を取ったのに天ぷらを食って死んだから(笑)。まぁちょっともう少しいいもん食べて死んでもらいたいと思うですけれども。

鈴木

それはねぇ間違い。

蒲原

あぁそうなの。嘘なんですか。

鈴木

いやまぁ、天麩羅食べて食中毒になった可能性もあるんですけど。その後、三ヶ月位臥せってるんで。家康は。胃癌じゃないかとも言われてるんですよ。多分、ホッとしてしまって大阪の陣のストレスが、体にきて多分、癌をつくって死んでしまったんじゃないかと僕は思ってます。

蒲原

いずれにせよかっこ悪いですよね。天下取ってこれかみたいな。なんかちょっと考えてくださいよ、家康の死に方。もうちょっと……

鈴木

言ったじゃん、家康の話はするなって(笑)。ずーっとさっきから家康家康って。テロですよね、一種の。

早見

みんな大好きですから。蒲原さんの気持ちは分かりました。それはぜひご自身で描いていただきたいと。ま、こんな感じで進めてまいりましたが、こういう信長がいいぞとか俺はこっちの信長が好きだぞとか、どうぞ

芦辺拓

「黄金の日日」は「太閤記」と同じく高橋幸治ですが、ちょうど僕も物語造りに目覚めた頃で、一番熱心に観ていたので印象深いです。でも高橋幸治って気持ち悪い。何考えてんだかっていう。堺の町の普請場で足軽が栗原小巻のミノか何かの被り物を取ろうとするその瞬間に走っていってその足軽の首をはねてしまう。これは宣教師の証言ですけど、信長がキレると怖い。凶暴というか、いきなり刀を抜いて足軽の首をはねてしまうのが、どうどうと描かれた。その後の信長のイメージがきつく焼き付いて残ってますね。あのシーンって他で描かれてましたですか?

早見

私もこの作品の中で、そのシーンを書いておりまして、有名な信長の一面を表すエピソードですね。1569年、足利義昭の将軍御所を造営するために、その時の普請場で起きた出来事です。芦辺先生もおっしゃったように高橋幸治が首を切るところですね、私は覚えていますが、週刊朝日でわざわざそのシーンが記事として載っていました。それぐらい高橋幸治の首を切るシーンが印象的ではあった。おっしゃったように描かれ方としては、ひときわ鮮烈だったんですね。緒形直人もやっていますね。緒形直人に首を斬られたやつが血を吹き出してバタンと倒れるんですよ。

誉田

「黄金の日日」はもの凄い残酷なシーンがあったの。善住坊がココまで埋められて鋸挽きのシーンも有りましたね。あれはできないでしょ、今の大河ドラマでは。あのどうですか

早見

あーそうかもしれない。NHKのディレクターじゃないから分からないですけど。

誉田

川谷拓三さんなんか減量してね、本当に死にそうになっているじゃないですか。

早見

そうですね。

誉田

結構、「黄金の日日」は多いですよね。五右衛門が釜茹でになったり。

早見

ああ、釜茹になったりね。

誉田

倒れるのもね。根津甚八さんでしたっけ

早見

根津甚八が。あれで人気を得てね。「黄金の日日」みんな観てるんですね、印象に残るというか。

芦辺拓

年齢的にね。

早見

呂宋助左衛門がね、この間、真田丸にゲスト出演みたいな形で出ましたね。染五郎、当時の染五郎が出てました。他になんかございましたら。

鈴木

「これからの信長像」ということについては、秋山香乃からだいぶ前から振られていました。それから以前から考えていて、結局、今日来るまで答え出なかったんですけど、さっきここにいる蒲原くんと話していて、思い付いたことがあります。僕も静岡県人で、今川義元大好きなんですよ。

蒲原

大好き、大好き。

鈴木

今川義元が死んだのが無念でならないです。今川義元って愚将ではなくて有能な武将で、信長が相手だったから殺されたところはあるんです。だから僕は考えたんです。信長は仇なんで今川家のね。だから静岡県人の仇でもあるんです。そこで信長をこてんぱんにするなんか感じの話は誰も書いてないんじゃないのかなと。ちょうどいま考えついたんですけど。信長をこてんぱんにする小説を書いてみたいなと思っています。

蒲原

信長をこてんぱん。鈴木先生の意見にまったく賛成なんですけど。僕も信長をこてんぱんにしたい。静岡県人はそれほど悔しいんですよ。なんか。いきなり、えって感じで今川義元負けてしまうので。あともう一つ違った観点から言うと、織田信長の行動を観ているとですね。すごくなんかこういう時にスゴく優しいのに、例えば貧乏人に反物をくれてやったり、信長公記にもでていますけども。ときたま急にキレて首はねちゃったりとかなんか。理解できない部分があるので、今でいうと注意欠陥多動性障害、ADHDみたいな感じだったんじゃないかなと思ってます。だから心療内科的なね、そういった感じで捉えなおしていくと、結構、面白い人なんじゃんないかなと思うんですけど。あとやっぱり部下にあんまり好かれてないですよね、三回ぐらい反乱、裏切りにあっているので。そういうのを含めて、信長みたいにならない部下に好かれる上司になるみたいな、そういった本みたいのを(笑)。ちょっとやっぱりこのへんは何かね、反信長的ね、空気が流れているですよ。静岡県民にはどうしてもね。僕をここに呼んできてはいけないんですよ。今川家の恨みなんですよね。

早見

大河ドラマで言うと、1988年の武田信玄と2007年の風林火山は、武田がもちろん主役なんで桶狭間の戦いを、今川義元は山本勘助の謀略によって、信長にやられたって描かれ方をしてますよね。

蒲原

「甲陽軍鑑」によると、桶狭間の戦いは山本勘助云々って書いてありますね。織田家に騙されたって書いてありますけどね。騙されてやられちゃったって。もしかしたらそうなんじゃないかなと。静岡県民の発想があるんですね。「信長公記」の桶狭間のシーンなんかも、整合性のつかないことばっかり書いてある。これは「甫庵信長記」に描かれた桶狭間の印象が強く残っているんです。しかし「三河物語」を書いた大久保彦左衛門によると、この「甫庵信長記」ですか、三つに一つぐらいしか合ってないぞと書かれています。そのことが理由で「三河物語」を書いたとも書いてありますね。もしかしたら桶狭間ってもうちょっと違う印象で起こったじゃないかなって。僕も最近調べているんです、どちらかというと今川よりの調べ方ですが。

鈴木

今川寄りにね書かないと。僕はデビュー作が「義元謀殺」というタイトルで、結局、最終的に桶狭間で話が終わるような話を書いたんです。読み返すと結局、そんなに格好良く書けていなかったんですよね。

蒲原

書きようがないですよね。

鈴木

そうそう。ただもうちょっとね、なんか義元の行動がわかれば、もっといい文書けるんじゃないかって。なんか戦わしたりとかして。史実でもいきなり殺されたわけじゃなくて、二人か三人斬り殺してから、討たれています。結局、そんなに格好良くないですが。今川義元の子どもの氏真って、これがまた輪をかけた駄目大名みたいに描かれています。でも彼は実はすごい剣豪だったんですよ、剣豪将軍義輝みたいな感じでした。かなり体がでかくて、だからちょっと話はズレますけど、氏真も書かしてほしいなと僕は思ってまして。ちなみに凄い今面白いのを調べていまして、まぁその成果によってまた色々書けるかなと思ってます。

蒲原

結局ですね、信長ってのはね。リア充なんですよどう考えても。リアルが充実している人なんで。で、静岡県民って、非リア充なんで。非モテでね。すごいよ安土城、浜松城しょぼいぜみたいな。そんな感じで僻み根性というのが染み付いてしまっているもんで、静岡県民の僻み根性を払拭したい。そしてリア充になりたいという。そんな気持ちでいますのでまた色々とご教授いただければなと。上手にまとまりましたね。

鈴木

まとまったのかなぁ?

蒲原

静岡県民としては、信長に協力できないんで。

早見

私は岐阜時代の信長書きましたんで、安土以降の信長を書き継いでいきたいですが、それには売れないと。執筆する場もございませんので、ぜひぜひ信長の最後まで締めくくらせてください。よろしくお願いいたします。今日はありがとうございました。

                               終

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