見出し画像

オーウェルの読み違い:強い生権力と性悪説~『1984』書評③

7:暴力からの自由

『1984』のディストピアは現実の1984年よりも、さらに先にある2020年代の現代の方に近い。冒頭にも書いた、上中階層の堂々巡りから永続的な権威主義への歴史的な転換はまさに今起こっているものだ。

 テクノロジーの発展と過去の独裁の失敗を糧にしたビッグブラザーの狡知は、全体主義国家・オセアニアに永遠の命を与える。それは今の中国やロシアや北朝鮮に最も明確に表れている。 

 だが、オセアニアが戦争状態にあり、圧倒的な暴力が党の行政に潜んでいる点は、未来を読み違えたものだと言える。これは『1984』が1949年という第二次世界大戦直後に出版されたことが大いに関わっているだろう

  実際は戦後80年近く、世界規模の戦争は起きなかったし民主国家からは拷問は消えた。

 これはアウシュビッツやヒロシマといった歴史が人類のトラウマになったこと、またそれを伝える無数の文化コンテンツが果たした功績によるものだ。それらによって現代人は戦争や暴政からはほぼ自由になったと言える。 

8:生権力の強弱

『1984』では拷問という暴力を経た上での「強い生権力」が描かれているが、この点も読みが外れている。また作品的にも、拷問に絡む残酷すぎる暴力描写によって、特に現代では小説としての価値を大きく損ねている。 

 実際には世界に平和な時代が続くことで新たな生権力が生まれた。生活、学歴、職歴。そういったものを握られるだけで、人は権力が差し出す生き方にすがるようになった。

つまり「弱い生権力」だ。
 
それによって現代人の多くは生きながら死人として生きる
生権力の奴隷になったと言える。
 

9:病的なナルシズムが捏造する性悪説

 私にとって一番大きな『1984』の読み違いは、物語が人類の性悪説に基づいている点だ。
 党の拷問によってウィンストンは最愛の人を裏切り、自らの信条や尊厳も捨ててビッグブラザーを愛するようになる。さらに本書では、全体的にそれが人間の精神の限界のようにして語られている。

  この点にはガッカリさせられた。心理学者がアウシュビッツでの体験記をつづった名著『夜と霧』ではこれと真逆の事実、つまり、どれほど悲惨な状況に置かれても最後まで尊厳を奪われなかった人々の輝きが描かれていた。私はこの人間観を信じたい。

  確かに度を越した暴力は鉄を打つように人の心の形まで変えてしまう。だが、それは洗脳に過ぎず、暴力で精神病を引き出しているだけだ。

それは人間の精神を変えたのではなく
精神そのものを強奪する行為だと言える。

  党のオブライエンは暴力的な洗脳による精神強奪を、人の精神支配、または人格支配と混同している。

 彼は党の集合意識、つまり2+2=5こそが現実だと言い張る。だが、不条理や混沌といった真の現実を排除したそのコントロールフリークぶりにこそ、権威主義の病的なナルシズムが表れている。

 そしてこの病に侵されたものがいつの時代も権力を握り、その現状維持のために人類の性悪説を広めているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?