手放せば新しいものが入ってくる【8月25日の気づいたこと】

お疲れ様です。今日は勉強の合間に書いています。

何かを手放せば新しいものが入ってくる

と、信じたい。笑 コロナ禍になってから一度も会えていない友人が居て、遊ぶ約束はするけどなんだかんだ会うのを断られていて、「もしかして私と縁を切りたいのかな…」なんて思ってしまった。確かに、常に友人関係をキープできる人数には限りがあるだろう。いつまでも高校時代の友人に声をかけるのは、彼女にとってもプレッシャーだろうか。考えすぎかもしれないが、私は彼女の母に好かれていない気がする。一方で私自身も新しい人間関係ができた。何かを失えば新しい何かが入ってくるのは確かである。そうやって、人は自分の世界を広げていくのだろう。

親だからといって許されないことはある

親のことで違和感を抱くことがあったり、嫌な思いをすることがある。しかし、これは「家庭内だから」「自分の親だから」といって許されることなのだろうか。親と合わないのは当たり前なのか。親と話していて泣きそうになってしまった。人の罪悪感を煽ってくる人は、家庭内だからと言って許されるものだろうか。メディアではそういうことは描かれない。例えば、朝ドラ「おかえりモネ」の両親は変に干渉しすぎない。ヒステリックになるシーンは一般的なドラマでは描かれないが、実際の家庭のリアルとしてそれは存在しないのだろうか。こういったことは口外するべきでないとして、蓋をされているのではないか。

ここからは別の決心としてのことだが、適度な不幸がないとモノが生み出せないとか、幸せだと良いモノが書けないとか言って、自ら不幸になりそうな恋に手を出してみたりなんてことは絶対にしない。
ただ自分自身をめちゃくちゃ愛してあげて、半径3メートルも愛して、それでいて良いものを生み出していきたい。
いつも口ばっかで情けなくって、でも本物になりたくて仕方ない。
第一線で戦える人間になりたい。憧れを憧れのままで終わらせるものか。

適度な距離感が心地よい

お話をしていて心地よい人は、適度な距離感で話してくれているということに気づいた。例えば、賢さや想像力があれば、相手があまり話したがらないことはわかる。もしかしたら、それを冷たいと言う人もいるかもしれないけれど、私はそれが心地よい。お互いのいい部分だけ(いい部分を多く)見られるのが心地よい。詮索しすぎない配慮や思いやりというのが確実にある。私はその優しさに癒されている。

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