【小説】父さん、あのね。


 美月があいさつもなくリビングに飛び込んだとき、父の陽介はソファに座って本を読んでいた。
 美月はなるべく忍足を心がけて近寄ったので、陽介はそばのローテーブルに置きっぱなしにしていた愛用の眼鏡を美月に奪い取られるまで、美月がソファの真横まで近づいていたことに気づかなかった。
「な、なんだ美月、こんな時間まで起きて、何をしている?」
「父さんこそ。もう二時だよ、いい加減に寝なよ」
 陽介は本を閉じたが、美月の足元を見つめたまま、顔を上げようとしない。

「眼鏡を返しなさい、美月」
「誰かに頼み事をするときは、相手の目を見て言えって、父さんいつも言ってたよね?」
 陽介が俯いたまま手を差し出すと、美月は眼鏡を片手で弄んで冷ややかに返した。
「ずっと、変だと思っていたんだ。いつもいつも、父さんばっかり昼夜逆転の生活で、だけど僕がおんなじことしようとすれば母さんに叱られるって、理不尽だなあって思ってた」
「……美月」
「それとおんなじなんだ。僕の目を、この眼鏡なしでは見れない理由があるんだね。特別なレンズを嵌めてある、この眼鏡がなくっちゃ」

 美月は父の眼鏡をズボンのポケットにしまい、入れ違いに忍ばせてあった、楕円形の手鏡を取り出した。
 室内の明かりが手鏡に跳ね返って、陽介の足元に小さなスポットライトができる。それで陽介は、美月の持っているものが鏡があると気づいて、美月の腰ぐらいまで視線を上げた。
「なんだ美月、それで何をする気だ」
「母さんの部屋から持ってきたんだ」
「どうして、それを。部屋のうんと深い場所に隠していたのに!」
「そんなこと、今はどうだっていいじゃん。ほら、怖がんないで、ちゃんと見てよ」
 美月が鏡を逆手に持って、低い位置から二人を映す。テーブルの足、ソファに腰掛けている陽介――しかし、その隣は空白で、美月の姿は鏡の中にはいない。

「父さん、僕の聞きたいことが何か、もう分かるよね。ちゃんと説明してよ、僕が映っていなくって、父さんだけがここに映っている理由を!」
 陽介は両手で顔を覆って、長い長いため息をついた。
「お前ももう十四才だもんな。少し、慎重になりすぎていたのかもしれない。本当の話をしたら、お前が傷つくんじゃないかって」
「子ども扱いしないでよ。僕はもう、毎月のように新月の夜には気持ちがざわついてるんだ。父さんと一緒にいると、余計にね」
「誤解しないでくれ。いつか、ちゃんとお前に話そうと思っていたんだ。本当に、すまなかった」
 陽介は座ったまま、美月のほうへ体を向けた。 しかしその視線は、やはり美月の視線と合わないよう、低く逸れている。

「実はな、……父さんは、ドラキュラじゃないんだ」

 美月が息を呑む。
「ドラキュラじゃない? それって、もしかして」
「ああ、そうだ。父さんは、ニンゲンの村から、母さんの地元に婿入りしてきたニンゲンなんだ!」

 美月の手から鏡が滑り落ち、ガラスの破片が床に散った。

「うそだ、そんなの、ありえない。ドラキュラの村でニンゲンが暮らすなんて、ライオンの村でシマウマが暮らすようなものじゃないか!」
「もちろん、父さんも母さんも、それぞれの両親から反対されたさ。正気じゃないと言われもした。だが、父さんも母さんも本気だったんだ」
 美月が両手で口許を覆う。わずかに開かれた口からは、ニンゲンの皮膚を貫けるほどの長くて鋭い犬歯がのぞいている。
 美月は陽介が歯磨きする瞬間を、一度だってきちんと見たことがない。血の繋がらない父親の犬歯が短いことも、その歯の裏に噛んだ生きものの血を吸い上げるため細い管がないことも、知らされないまま共に生活してきた。
 すなわちそれは、美月に父の秘密を知られないために、真実によって美月が傷つき思い悩んでしまわないように、一つ屋根の下で種族の違う両親が協力して秘密を守り抜いた絆の証左でもあった。

「先に、母さんの家が折れてくれた。すでにお腹にお前がいた母さんと一緒に、父さんはこの村でずっと生きていくことに決めた。あちらは父さんに気を遣って、ここの家には訪ねてこないけれど、出産祝いやお前の入学祝いなんかで、今まで沢山お世話になっているんだよ。お爺さんとお婆さんのことは、どうか責めないであげてほしい」
「それで、父さんの両親は『いない』ってことになっていたんだね」
「誤解しないでくれ。両親とは……つまり、お前にとっては父方のお爺ちゃんとお婆ちゃんだが、三人で仲良くやってきたんだ。だが、結婚を期に『息子は病気で死んだものだと思ってくれ』と言って、別れてきた。二人ともドラキュラを恐れていたから、そう思ってもらうほうが円満にお別れできると思ってね」

 気まずい沈黙がややあって、やがて美月がおずおずと尋ねた。
「父さんは、ニンゲンの村に帰れなくって、寂しくないの?」
「もう慣れたよ。ドラキュラの友達もたくさん増えた。ときどき、コウモリ野球に誘ってくれる連れがいるんだ」
「あの、檻から放したコウモリを、超音波でなるべく遠くから呼び寄せるやつ?」
「まあ、父さんは美月たちみたいに超音波は出せないから、見ているだけだけどね。審判ならできるから、手が足りないときには参加しているよ」
「ニンゲンのくせにアンパイアなんて、なんだかダサいなあ」
「おい、言うな……酒場に飲み友だっているんだぞ。そいつはニンゲンの血が飲めなくってスッポンの血やトマトジュースばかり飲んでいるから、父さんとも気が合うって言ってね」
「なんだよ、その鬼(ひと)、ただの下戸じゃん。もともと血が飲めない父さんと一緒にするのはどうかと思うけど」
「まあまあ。互いの『飲めない』事情はどうあれ、表向きには仲良くやれているんだから、いいじゃないか。つまり、きちんと気をつけて付き合っていけば、誰も父さんをニンゲンとは疑わないし、噛みついてもこないってことさ」
 きちんと気をつければ――と、美月は小さく繰り返した。
 ひとときでも気を抜けば、陽介の正体がバレてしまう。そうなれば、鬼々は一斉に陽介へ襲いかかってくるだろう。
 この村にいる限り、陽介の人生は常に綱渡りなのだ。

 美月はズボンのポケットに手をやって、陽介の愛用している眼鏡を取り出した。
 ドラキュラの目から発せられる特殊な光線には、ニンゲンを捕食しやすくするために催眠状態にして気絶させる効果がある。陽介は、その光線を遮るレンズをつけた眼鏡なしには、ドラキュラ達が行き交う村を歩けないのだ。
「じゃあ、父さんがニンゲンっていうのは、母さんと、お爺ちゃんとお婆ちゃんの三人しか知らないの?」
「……今日からは、美月も加えて、四人だけの秘密ってことになるな」
 陽介が疑いもなく笑ったので、美月は胸がざわめいた。

「ニンゲンは、昼間に生活するんでしょ。あの、ドラキュラを焼き殺してしまう日差しの中を、平気で歩き回れるって」
「ああ。本音を言うと、父さんは今この瞬間だって、家の外に輝く、あの太陽の下で散歩がしたいよ」
 美月は部屋の遮光カーテンを忌々しそうに見つめた。
「そうか、そういうことか。父さんの名前、なんておっかない名前なんだろうって、ずっと思ってた。けど、ニンゲンだって分かったら、納得したよ。名前に取り入れるぐらい『太陽』が好きだなんて、僕には全然わからないことだけどさ?」
「さすがにこの村では、日光浴はしないよ。村のみんなに怪しまれてしまうからね。夜の七時に起きて、朝の五時に眠る生活は辛いが、さすがにもう慣れたよ」
「そんなこと言って、今日だって昼の二時になっても起きているじゃないか」
「たまの昼更かしぐらいは許してくれよ」

 美月は顔を背けて、眼鏡を握った手だけを、ぐっと陽介の前に突き出した。陽介は美月の気遣いに「すまない」と言って、受け取った眼鏡をすぐにかけた。
 陽介が立ち上がり、床に散らばった鏡の破片を拾おうとすると、美月が「僕がやるよ」とその手を制した。

「こんなところで、こんな大事なときに、血のにおいを嗅がせないでよ。僕は今、新月のせいでとびっきりイライラしているんだから」


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