自己アピール構文

就活への嫌悪感を綴っています。
前向きで快活さに自覚がある人は回避するべき記事です。


主に就活において自己アピールを書かなければならないとき、大抵がテンプレートに沿って書くことを強要される。

私の強みは〜です。その強みを発揮したのは〜。課題は〜。そのために〜。という行動をとりました。結果〜という成果ができました。この強みを生かして〜

私はこの構文の悪意なく人の人生を消費させるところに嫌悪感がある。

全ての経験には価値があるという同調圧力だ。

それも一言で表せるように簡潔でわかりやすくなどと悪趣味がすぎる。

そのうえ「本当のあなた」のような正直さを求める図々しさよ。

人の内面は自由であると本気で思い、外側をなんとか取り繕いながら不器用に生きている。

それを外野が経験だ強みだなんだとなんと勝手なことか。

私は私の人生を消費されるための最も効率の良いテンプレートに沿って切り取り美化して、さも熱意のあるような文章を書くという自分で自分を消費する行為に吐き気がする。

本当のと言いながら外面で判断をし、就活における文章力もテンプレートの模倣。
就活エージェントに「このテンプレートに沿って書けば魅力的に見えますよ」と手直しされ、自分より低い文章力を察した時の絶望よ。
テンプレートに沿って書かれた画一的で無個性な文章に、本気で魅力に感じているのなら正気を疑うが、だからこそあの界隈で働けるのだろう。

人格否定

これに関してはほとんど感じたことがない。人事界隈もかなり慎重にしている部分なのだろう。稀に、落とされたからといって人格が否定されているわけじゃないよと慰められるのだが、私は私を否定されたとは感じないし、そういう意味で落ち込んだことはない。

前向きであれという同調圧力

これはかなり深刻だ。同調圧力というものはストレスの原因でしかないことは小中高と学生時代を過ごせばどんな人間でもわかるだろうに、それがまかり通るゴリゴリの体育会系思考が幅を利かせているのだ。

人を消費することに疑問を感じず、消費させていることに無自覚である
というのはいわゆるハラスメント行為のはずなのだが、彼らは圧倒的強者の立場であるので無自覚でいられるのだ。皮肉なものだ。


エピソードを求める

これこそ人間性の商品化、人生の消費者としての行為に他ならない。

「人生にはそれを象徴する衝撃的なイベントが起こり得るはずだ」という思想こそがエピソードという物語を要求するのだ。

時間は未来に対してしか進まない。であればその人を形作っているのは人生そのものであって、人生を象徴するのが自分である。歩んできた道の結果が今の自分なのだから、順番としては逆だろう。

人生を象徴するのが今の自分なのだから、自分を象徴するための人生ないしエピソードがあるというのは本当に「よっぽどのこと」でないとないはずなのだ。

結果のための過程というのは目指すものが定まっているときに発生するものである。
自らの生きる理由すら見出せず、ただ死んでいないので生きているただの一個人であれば、人生という大きな枠組みにおいて結果のための過程は発生しない。

目標も結論もないのであれば、象徴として置かれるべき存在は過去のエピソードではなく、その人生の最前線を走る「現在の自分」こそが象徴される全てではないか。

そもそも出来事ひとつで人間性が変わるわけでもわかるわけでもない。

人生とは時間と経験に過去という名を与えて敷き詰めてきた道なのだから。
エピソードを綴ったところでわかるのはその人の一側面でしかないことをわかった上で「現在の自分」は抽象的で判断に合理性を欠くので、抽出された一要素を「私」として世に出すというのはやはり個人の商品化にほかならぬ行為ではないか。

エピソードとして求められる「強み」に対して「できなかったことができるようになった」というストーリーが割り当てられる

これもおかしなことで、「強み」というのは持ち合わせている長所なのだから、違う環境に置かれた時、最初からできることなので「できなかったこと」にはならないはずだ。

「他の人はできなかったが私はできる」という方向性は変化をただ肯定する性質があるように思う。

変化とは光の当て方で是非が変わるもので、その功績は常に後世に評価される。
「その時は良かったが、今となっては……」ということも当然あり得るのだが、「その時」に自らスポットを当てるのが、強みのエピソードである。

特に「変化させる」ことが小手先の技術になりつつある今、変化をただ肯定することはそれこそ脳死の賞賛ではないか?


本当の私という幻想

「私」とは多面体であって、書き表されるものはすべてその一側面に過ぎない。
一側面であっても私であるのならば良いという考え方もあるが、私は納得しない。一側面だけで私が成り立つなどありえないからだ。

内向性がマイナスに評価される
就活現場において「正直さ」というのは本当に相性が悪いのだが、それを求める傲慢さが「本当の私」という幻想を産み、矛盾と無駄な葛藤を発生させるのではないか。

自己を考えるのは暇と思考を持て余した哲学者のすることであって、活動に忙殺される就活生のすることではないだろう。

ましてその言語化された自我を都合よくテンプレートに収めようというのは本当に浅はかなことだ。
自我とは他人に消費されるためにあるものではない。私が私であるために存在するものである。
それを開示せよというのはひどく苦痛に感じるからこそ、このような長文で怨嗟の声をあげるハメになっているのだ。

ルールに縛られた窮屈さの中で自己を開示すること

それは画一的な価値観の中で「相手が思う、求められる人物像」をドンピシャで引き当てるクイズのようなものであって、本当に「本当の私」が必要なわけではない。ただ、その人物像の範囲に近づく努力をせよ。ただそれだけなのだ。

私はその「相手が思う理想の人物像」は「私」ではないと思うし、それを「あなた」として求めてくるということそのものが消費する側の目線であると感じている。

この人は私を消費するためにここにいるのだという不信感が全ての元凶なのだが、社会というのは思ったよりもそのように成り立っているらしい。

いくら多様性を叫ぼうが、残念ながら最低でもあと60年は変わらないと思う。

人は不公平にできている。その中で我々は最善のカードを選ばなければならない

そう言ったのは誰だったか。私は覚えていないが、全くもってその通りだと思う。本当に人生は理不尽にできている。


終わりに

ここまで拗らせずとも、誰かしらが何かを思う。いろんな感想があっていい。
世知辛いですが、ご武運を祈ります。

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