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「三輪車に乗りたい」(けやき坂46) 歌詞解釈 子供の頃の思い出の出口

今回は、歌詞解釈の記事を書いていこうと思います。今回扱う曲は、けやき坂46(日向坂46)の「三輪車に乗りたい」です。作詞は秋元康氏です。歌唱メンバーは、柿崎芽実と佐々木美玲の2人です。
それでは、解釈していこうと思います。この曲の構成について考えると、1番→2番→大サビ→サビ、となっています。また、()で区切られた歌詞も非常に多く目をひきます。まずは、1番から順番に考えてみます。
※大サビ…サビの前で挿入される、これまでのメロディと異なった部分。Mr.Children「HANABI」などが具体例。

まず、1番の歌詞を引用してみます。

アパートの前 端に寄せた三輪車は (忘れられて)
近くに住んでいる子供のものだろう (迷子みたい)

青い塗料が落ちたのは
放置した愛のせい 月日は過ぎる (わがままに)

*1
僕はここだよ (大人になってしまったけど)
大きな声で (何も変わっていないんだ)
叫んでるのに (そんなの嘘だとバレているよね)
思い出に乗りたい 小さ過ぎたとしても

ーーーけやき坂46『走り出す瞬間』より

1番では、三輪車を偶然目にした「僕」が、過去の思い出を振り返っています。この1番において注目すべき点があります。Bメロで、“放置した愛”とありますが、これは一体何を指すのでしょうか
この前段に着目すると、”青い塗料が落ちた”という描写から、三輪車は風雨にさらされていたということがわかります。風雨にさらされるということは、長年使われず放置されていた、持ち主が成長し、三輪車に乗らなくなったということを指すと考えられます。このことはAメロの"迷子みたい"という表現にも読み取ることができます。また、Bメロの”わがままに”という表現に着目してみます。これは使われていた三輪車側から見た、三輪車の持ち主に対する思いといったところでしょうか。持ち主が成長した後に、三輪車を使わなくなったことに対して、自分本位な考え方だと指摘しているようにも思えます。これらをまとめると、”放置した愛”というのは、三輪車の持ち主が子供のころに毎日のように乗っていた三輪車、そこに詰まっていた思い出が、持ち主が成長してから顧みられなくなった、ということを指すと考えられます。
そして、サビで"僕はここだよ"、子供の時から成長していないあの頃の「僕」がいると”嘘”をついて呼びかけることで、過去を求めている「僕」の姿が読み取れます。

次に、2番を考えてみます。

ひっくり返り 雨ざらしの三輪車が (寂しそうで)
誰かにとって大事なものだったのに (邪魔なだけだ)

ひとの気持ちが錆びるのは
しあわせになれすぎて 普通になるから (ときめきも)

*2
君はどこなの? (あれからずっと会っていないし)
あの頃のように (アパート引っ越したと聞いた)
会いたいけれど (昔のことなんか興味ないか)
三輪車に乗れない

2番は再び、三輪車に思いを馳せている描写から始まります。2番は、1番と対比して見ると非常に面白い構造になっています。Bメロで、”錆びる”という独特な表現を使っています。これは”ひとの気持ち”に自転車を重ね、思い出が薄れることについて語っています。人は様々な感情に繰り返し触れることで、その感情に対して鈍感になってしまう。”しあわせ”も”ときめき”もそのようなものだと捉えています。
「僕」は思い出というものを大事にしていますが、その一方で"邪魔なだけだ"とも"昔のことなんか興味ないか"とも考えています。「僕」が思い出の中で求めていた「君」という存在、おそらく子供の時に親しかった友人でしょう。この「君」とは現在、疎遠になってしまっており、会うことができません。そんな「君」との再会を望んでいるが、「君」は、「僕」のことを忘れているかもしれない、どうでもいいと思っているのではないか、という疑念が「僕」の中に渦巻き、「僕」は”三輪車に乗れない”と続けます。この歌において三輪車は過去を思い出すキーアイテム、さらに思い出としての要素も持っています。1番のサビ”思い出に乗りたい”という歌詞とも考えると、思い出=三輪車という構図が見えてきます。「僕」は思い出に浸りたいが、浸ろうとすることができない。今そばにいない友人を思っているわけです。

街の灯りがいつのまにか点いている
「もうこんな時間なのかなんて 空の気配で気づいて」
影法師の長さがなんだか懐かしかった
何かに夢中になるっていいもんだ

*1 くり返し

*2 くり返し

僕はもう子供じゃない
僕は三輪車のベルを鳴らした 

大サビでは、三輪車に思いを馳せる「僕」が長い時間、過去を思い出していたということがうかがえます。”影法師”という言葉から、「僕」が子供の頃、夕方まで友達と遊んでいた情景が浮かび上がります。「僕」は影が長くなるまで「君」と遊び続けていたのかもしれません。そして、再び、1番と2番のサビを歌い、過去を思い出し、「君」を求めます。そして、"僕は三輪車のベルを鳴らした"と続きます。これは一体、何を意味するのでしょうか
「僕」は三輪車から、かつてよく遊んでいた「君」を思い出します。あの頃の自分には戻れない、今はもう”大人になってしまった”から。「僕」はベルを鳴らすことで、思い出を振り払う気持ちを固めたのではないでしょうか。しかし、思い出を完全に忘れるということではありません。「僕」にとって、思い出の象徴である三輪車のベルを鳴らし、呼びかけているのです。当然、「君」という存在はその場にいないので、その音を聞きつけることはありまん。ベルを鳴らすことで、過去に戻りたいけれど戻れない、「君」と再会したいができない、という「僕」の気持ちに整理をつけたのではないでしょうか。思い出は心にしまったまま、とどめているわけです。

まとめ

「三輪車に乗りたい」では、過去の思い出を子供の時によく遊んでいた三輪車に見立てて、仲のよかった「君」を思うという構図をとっています。大人と子供の境目、そんなものはいつも曖昧で、よくわからないその境目で揺れる「僕」の気持ちを表現した曲だと言えます。1番と2番の対比がうまくきいていて、「僕」の切なさ・哀愁が漂ってきます。
人は誰しも、過去を思い、懐かしむ。その気持ちというものは、決して消えることはない。思い続けてもいい、とらわれてもいいということではないでしょうか。

#三輪車に乗りたい #けやき坂46 #日向坂46 #秋元康 #歌詞解釈

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