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はじめまして

先日、横浜中華街の占い師から、「何かを執筆するようなことをすると良い」と言われた。
なんだか長年燻っていたものを見抜かれたようで、それでもって背中をぐっと押された気がして、こうしてnoteにとりあえず投稿してみたりしている。

私にとって、言葉というもの、とりわけ文字になっているものから受ける影響は、どうやら映像や耳で聴くものよりも大きいらしく。
書いてある内容はもちろんのこと、言葉の使い方やリズム感などについてもどうやら自分なりの好みがあるらしく。
そんな言葉や文章に触れるたび、良いな〜こんな素敵な言葉を扱えるような人間になりたいな〜と、常々思ってはいた。

とりあえず、noteというツールであれば、素敵な言葉にたくさん触れられるし、あわよくば自分で投稿することもできる!と思い、登録はしていた。
登録してしまえばいつかは書くだろう、うん、そのうち何か書くだろうと思っていたら、いつの間にか登録3年達成おめでとうのバッジが届いていた。3年て。中学1年生が卒業もするレベルの年月よ。

私は典型的な、いつかやろうと思ってずっとやらない人間だ。いけたらいくわ、と言って絶対に行かないし、生活に支障が出ないことはすべて後回しにする人間。
思うに、そんな人間がインド象よりも重い腰をあげて何か新しいことを始めるためには、内発的よりも外発的な動機づけの方が適しているのだと思う。
つまり、自分自身のやる気を信じていては、絶対に何も叶わない。たぶん一生やらない。
ただ、何か心に刺さるようなトリガーやきっかけを与えられると、急にエンジンがかかることがある。もちろん、100%動くとは言えないが。

きっかけの話になるが、そのきっかけとなりうるものは、より遠いところから与えられた方が、トリガーとして効果的な気がする。
あまりに近いものからのきっかけは、嫉妬が生まれたり、自尊心が傷ついたりして、余計に目を背けたくなってしまう。
なんてことない雑誌の中盤あたりのエッセイだったり、普段観ないようなテレビのふとしたコメントだったり、そんな寝耳に水の言葉のほうが、案外トリガーになったりするものだ。
それが、今回は占い師からの言葉だったというわけだ。

偉そうに述べているが、ここまでの私はnoteに投稿することさえ3年かかり、人様からの優しいアドバイスには勝手に傷つき、与えられるきっかけに対してはもっとこう言うものが良いと難癖をつけている。
そして結局ひとりで納得して、こうやって意気揚々と初めての記事を投稿しようとしている。なんて奴だと思う。自分で自分がひどくめんどくせえのだ。

でも、ひとつ小さな方向性として決めておきたいのは、めんどくせえ自分なりに、かっこつけたりせずに自然体で何かを書いていきたいということ。
というか、かっこつけたところで自分には何も突出したところがないので、ぺらぺらりんの内容になるのが目に見えて分かる。
自分で恥ずかしいと思う自分の部分こそむしろさらけ出すような気持ちで書く。誰が得するかとかは度外視で。

思えばこういう形で自分の思考を対外的に書くのは初めてのような気がする。
中高生時代に書いていたブログも、その日にやったことや行ったところの感想だったし、
はたまた個人的な日記は他人が見るように書かれていないので文が破滅していたりする。
まだ投稿ボタンも押していないのに、すでに楽しくなっている自分に驚き。なににこんなにわくわくしているのか。3年も放置しておきながら。

とりあえずはじめましての記事だが、これが最後になる可能性も否めない。私は物事を継続出来ない人間でもある。
でも、それはそれで恥として、記事を消すようなことはしない、と決める。せめて。
恥ずかしい自分をどうかこれからも受け止めてくれ、自分。

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