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チェルシー販売終了の今日に思うこと


チェルシー終売

53年の歴史を持つキャンディ『明治 チェルシー』
既に2月末にて製造を終え、店頭から在庫がなくなり次第、販売終了となる。
店頭には当然無く、メルカリをはじめとしたネットで高額転売されている。

明治の広報は、終売理由を「市場環境や顧客のニーズの変化で、売り上げが低迷しこれ以上の継続は難しかった」と説明した。

売上の低迷と一口に言っても、近年のコストアップを吸収しきれなくなったため成立しなくなったのか、値上げや見直しは成功していたのに売上自体が不調になったのかわからないが、ともかく継続するに足る販売になっていなかったのだろう。

つまり、チェルシーが高かろうがなんだろうが、小売店が仕入れていれば、ひいては消費者が買っていれば終売せずに済んだのだ。

普段から買っていればこのようなことにならなかったのに、終売が決まった途端に『悲しい』だの『残念』だの、どの口が言ってんだ、という思いだ。
普段食べていないのに、いざ買えなくなると途端に欲しくなる、全くもって恥ずかしい。人間として浅ましい。
チェルシーが好きなのではなく、希少性のあるものが好きなだけだろう。
そういう人間は、結局チェルシーがこの先100年も200年も販売していれば、これまで通り買わなかっただろう。

あまつさえそこに便乗する転売ヤー、お前を稼がせるために明治は終売に踏み切っているわけではない。

希少性をありがたがる人間性

とはいえ、チェルシーに限らずこのような事象はよく見られる。

廃線が決まった途端に押しかける鉄道オタク。
普段から乗っていれば廃線にならずに済んだかもしれない。

解散が決まった途端にライブに行くにわか。
普段からライブに行ったりCDやグッズを買っていれば解散にならずに済んだかもしれない。

自分たちが今まで『当たり前のようにある』『行ける時に行けばいい』と思っていたツケだ。

推しは推せるときに推せ、とはよくいったものである。

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