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ほんのしょうかい:牧野隆夫『仏像再興』(山と渓谷社)〈『思想の科学研究会 年報 やまびこ』より〉

牧野隆夫『仏像再興』(山と渓谷社)
 日本の美術・工芸の世界では、伝統工芸とは、技術や技法、そして表現が、模倣されながら伝えられていると考えられがちである。けれども、それらは、様々な断絶によって分断されていて、伝統技
術は、表現の痕跡に問いかけながら理解することによって再生されている。仏像制作のノウハウも日々
の作業による問いかけによって、新たに発見されているといってもいい。
 かつては、国家事業であった寺院、仏閣の建立、それに伴う仏像制作も、権力の分散、大衆化、宗教形態の変化と共に、小さな営みになっていく。それとともに、大工房の事業から、小さな職人集団への営み、個人の作業へと軸足が移った。かくして大きな歴史の推移、社会の変化に晒されながら、仏像は制作され、修理されてきた。
 この本の、著者の牧野隆夫は、仏像の保存修復に関わり、吉備文化財修復所を立ち上げ、その後、東北芸術工科大学に迎えられる。保存修復の実務を行いつつ、後進を育てた。彼は、その長い経歴を通じて、仏像、工芸品の修理、修復の意味を問い続けた。『仏像再興』、この本は、人のいとなみの中にあり続けた“ 仏像”の意味を問い続けた半世紀に渡る道程をあらわしたものでもある。
 病に様々な症状があらわれるように、修理、修復と一言でいっても、色々なものがあることに驚かされる。仏像は、製作された当時の意図から、長い年月の間に、そのとき、そのときの人々のいとなみや、出来事にまきこまれては育てられて、今、この場にある。そして、その間に、修復や修理が加えられてきた。
 修復というのは、一種の出会い直しである。仏像には、制作された時のはじまりの姿がある。時とともに傷つき毀損する出来事がある。手を加えられた過程がある。もしくは、放置されてきた傷口がある。始まりの姿に、その歴史に、そして持ち主たちの希望に、向き合うことから修復は、はじまる。
 修復は、伝来のものを温存しながら、できるだけ根本をこわさずに次へとバトンをつないでいくことである。それでも、修復の先に“ あるべき姿” というのは何か。かつてあった姿とも、もとのままともいえる。けれども、それは、信仰のその時とその場所で求められる姿でないかもしれない。また、失われた姿への憧憬は、別の記憶を呼びよせるかもしれない。欠損したもの、失われたもの、その真っ暗な空白にあわせて何を埋め、何を省くのか。
 長い年月、長い過程を通過すればするほど、形は本当の“ あるべき姿”からずれていくかもしれない。それでも、人の求めに応じ、人の手によって成すが故に、それは人のいとなみに近づいていくのだろうか。人は神の似姿によって造られたともいわれるが、その人々は、人の似姿によって、像をつくり、絵を描いた。その誤解、嘘、その虚構、それは「まこと」から離れながら、美を、醜を、生み出すかもしれない。
 痕跡に向き合いながら過去と出会い直すことは、歴史を知り、過ちを正し、自分を問うことに微かに繋がれるかもしれない。『仏像再興』この一冊は、歴史を、過去を、己の根源的な姿を求めようとしたとき、鏡のように参考になる一冊であるように思う。
                                       (襾漫 敏彦)


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