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〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、46ー50:デジタル技術など

第46回


ここのところ、創作の身体性にまつわる話を続けています。

 絵画と写真、映画の看板の昨今の比較と続けました。今回はデジタルペイントについてです。

 最近は、ミクストメディアや写真の取り込みなど、様々な手法が展開しています。その中で、パソコンやiPADなどを使って映像を作成し、それをデジタルで出力する作品もでてきています。

 デジタルの特徴は、指示したとおりにでてくるということです。

 絵具を使って絵を描く場合は、どうしても物質としての具材の制限がかかります。その物質としての制限と自分の描きたいものとの間の葛藤が、作品と制作に絡まってきます。それは、一種の底なし沼のようなものですが、そこに、それを扱う人間の限界や個性が、染み出してくる源泉のようなものがあります。

 作画の段階では、さまざまな個性が含まれているのですが、筆の運行の偶然性や、塗った時の時間差などのどうしようもなく生じる差異はキャンセルされるのでしょう。

 指示と計算の世界を通すことで、作者の身体性のようなものは洗い流されてしまいます。

 これは、印刷、3Dプリンター、写真、AIを考える際にも参考になる視点だと思います。

第47回 

 3Dプリンターが、出現したとき、仏師の知り合いが、画家にとって、写真があらわれたときのようなインパクトが、彫刻の世界にあらわれるのだろうと言ってました。

 木彫りの場合、木材は、疎密があり木目としてあらわれます。木彫の作家は、そこをどのように作品の全体と調和させるかを考えながら作品をつくっています。そのあたりの工夫に、作家の技量や判断の個性がでてくるようです。
 普段、大工をされている方の作品では、木目まで作品の構成に巻き込んでいるのもあって感動したことがあります。
 また、木材は、切り出されても呼吸をしていて、時間経過とともに少しづつ変化して、ひび割れや歪みを生じてきます。作家にとっては、そのあたりもある程度想定はしているし、また、売って終りではなく、そこで修理をするか、むしろ手を入れずに時を置く場合もあるようです。

 木彫り作家は、そういう経験を積み重ねながら、技量を高めていっている部分もあると思います。

デジタル技術は、予定したものをそのままつくるのであって、製作過程に生ずる気づきや発見は、出力段階ではありません。

 どちらがいいかではなく、僕等は作品を目にして、なにを手にいれようとするのか、何に心を動かされるのか、そういうことかもしれないです。

 昔の彫刻の模型を手にして、そこに価値をみいだしている自分達もいることも忘れないようにしないとですか。

第48回




 デジタル技術による製作は、作者の肉体や具材の物質性の影響の残渣のようなものが残らないと説明してきました。

 作者が、イメージを創造するのですが、それを物質に固着する作業は、別のものが行うということです。

 建築士が、これから建てる家の設計図をつくるのですが、それを作っていくのは、大工さん達です。その作業における身体性は、大工さん達によるものになります。

 街路や地下道のタイルをみていると、その細かな配置の感性は、誰に由来するものかと考えることもあります。

第49回


 デジタルやAIに絡めて表現の身体性の話をしていましたが、デジタル技術の活用、パソコンのアプリを活用して、表現を行う際、あらわれる現象のひとつは、キリがなくなることのようです。

 原稿用紙に、手書きで文字をかいたり、手紙を書く場合、書き直すことはありますが、大きな間違いや問題がなければ、少々の見映えの悪さは目をつむって見きるものです。
 一人と書くか、ひとりと書くか、その部分だけ直すために全部を書きなおしか、いなか、労力とのバランスです。

 パソコンのワードなどでは、部分の修正は、それ以外を維持したまま行うことができます。雛型を作っておいて名前や日にちだけ直すことも簡単にできます。
 また、下絵の制作の際、少しの操作で、大きな変更をなすこともできます。
 できたと思いながら、もっと良くなるかもしれないという囁きが聞こえてきたりもするし、前の方が良かったのではとの思いもでてきます。

 終わることができないことになりやすいのも、デジタル技術の特徴でもあります。

第50回

 写真の登場は、画期的なことであったと思います。西洋の絵画・美術の歴史においては、絵を描くというのは、模写をする、そこにあるものを写しとる、そういうことが考え方の基本にありました。

 言葉で物事を伝えるように<記号>を並べて意図を伝える方向ではないということです。

 そのものをそのものとして写し取ろうとして、様々な工夫がなされました。遠近法ほその一つですし、また、機械を使って投影させたり、窓ガラスのようなものに写してなぞるそのような手法も展開されています。

 ジュリアン・ベル著 長谷川宏訳の『絵とはなにか』(中央公論)には、そのあたりに対する考察が丁寧になされています。

 西洋・キリスト教文化圏においては、この問題は複雑な背景を持っています。

 「神の作りたもうた世界は、そのままで神の意図である。だから、世界の模写は、神の御業の確認、証明にもなる」という考え方があります。けれども同時にモーゼの十戒にもあるように偶像崇拝は禁止されています。ですから、描写というのは、偶像につながるところはあり、あくまでも<記号>としての図像でしか表現できないということもあったようです。

 今話題になっている、AIとは写真、写実なのか、それともストーリー、物語りなのか、実は立ち止まって考えてみることも必要かもしれないように考えています。

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