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【画廊探訪 No.145】瞼を閉じて、微睡みの中で、私に触れて――『いまを刻む』清水佳奈出品作品に寄せて―――

瞼を閉じて、微睡みの中で、私に触れて
――『いまを刻む』福田美菜・清水佳奈展(Gallery FACE to FACE)
 清水佳奈出品作品に寄せて―――

襾漫敏彦

 見ることは、見られること。そして、見ないことは、見られないことでもある。見ることは、考えることになり、見られることは、考えられることにもなる。瞼を閉じると、思考はゆるやかに静謐の湖に沈んでいく。そのとき、“わたし”のイマージュが浮かび上がる。


 清水佳奈氏は、人物の肖像画をモチーフとして、その向こうの手触りを表現する画家である。油彩では、感情の昂(たかぶ)りもまじえた表情を描く一方、銅版画では魂の原点への回帰を描く。そこでは、肉体も精神も崩れ落ちた後に浮かびあがる “いのち”の残映を表現しているようであるが、それは、同時に、“いのち”が本来結びついている“わたし”を包むものを呼びよせている。


 世界は、無数の実在から成り立っている。人、動物、昆虫、魚、植物、微生物。石や土、水、さらには光、熱、振動。関わりの連なりとして考えれば、全ては対等な実在である。フランスの哲学者、ベルグソンは、それらをイマージュと表現しているが、全てのイマージュの中でも、“わたし”にとって、それらを結びつけるものとしての“わたし”の“身体”を特別なイマージュとしている。そのイマージュが、“わたし”の幻影をつくる。
 全ての実在同様、わたしたち、ひとりひとりは、肉体の窓をもっている。窓から西日が射し込むように、外からの光が織りなす陰影が私の自覚をもたらしている。けれども、それは外の力で表現されたものにすぎず語られない膨大な残余が残っている。

 窓を閉じるように瞼を閉じたとき、視覚によって妨げられていた連環が浮かびあがる。魂の器である肉体の感覚は、虫や魚、そして植物を通じてもっと大きなものへとつながる。顔の脂で、化粧がくずれていくように、見られることで塗り固めた自分がくずれたとき浮かびあがるのは、私の魂の故郷である大自然、大宇宙、そのものなのであろう。

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