見出し画像

サマリー画廊の楽しみ方ーーなんで画廊に足を運ぶのか【アート・エッセイ】 36~41

第三十六回


 美術との関わり方は、ひとそれぞれです。誰かが、〈美〉を目指して作ったものを、この〈わたし〉が感じるという、一対一の対話のようにとらえることはできます。

 そのようなつながりが、前提でしょうが、社会とアートがどのように交わるかという様態は、数えきれないほどの展開をしています。

 表現活動、経済活動、ひとが関われば関わるほど、さまざまになるのが当たり前でしょう。

 画廊で、業界の関係者がいるわけですから、アートが置かれている状況を垣間見ることもできます。

第三十七回


 美術品が、社会でどう扱われているか、ということから、社会の姿を考えることもできます。
 社会経済活動から美術がどのように扱われているかと考えると、アーティストの行き着く先というものもさまざまであることも理解できるでしょう。

 作家と言われる文章を書く人でも、賞をとるような文筆業の方もおられるでしょうし、広告のコピーを書く人、宣伝の文章を書く人、ジャーナリスト、さまざまな評論活動とさまざまですし、中にはJINや個人雑誌、最近ではネットやSNSで活動している人もいると思います。noteもその一つですよね。
 また、誰かのゴーストライターとして活動されている方もいると思います。

 自分の活動を社会の分業と結びつけて、生業をたてもするのでしょうが、むしろ、文筆を自分のものとして、収入とは切り分けて生きている人もいます。

 アーティストも、同じようなものです。ついつい、美の高みを目指して、自分のオリジナリティを求めて邁進する人のように思いますが、そんな単純なことではなく、それは、僕らの、思い込みの、期待の投影に過ぎないかもしれません。

第三十八回

 前回、アーティストについて、彼らのことを、美の高みを目指して、自分のオリジナリティを求めて邁進する人のように考えるのは、僕らの、思い込みの、期待の投影に過ぎないかもしれないと書きました。

 でも、それは、アーティストだけにとどまりません。全ての医者が、患者を優先して生きているでしょうか、そして医療でのみ生きているでしょうか?政治家が、国民の公僕として、国民のために滅私奉公しているでしょうか?科学者が、学問的真実に従って生きているでしょうか?
 多くの存在は、社会の要請、こういうと聞こえはいいのですが、人々の欲望の総体にいかに絡め取られているかともいえるでしょう。

 理想的でもない、天上のものでもない地上のうつし世の社会の泡沫のように結びては消える儚き存在のひとつとして、美術の世界のスターダストたるアーティストも輝くのでしょう。


第三十九回


 社会の中での輝くこと、それがアーティストのありようですが、どの場所で輝けるか、それは、残酷な神の差配と言えるかもしれません。

 ある人はツリーのテッペンの星かもしれません。そして、もみの木の下の方の柊の葉かもしれません。

 ひととひとが作る社会といわれる大きな広場で、表現という要素に荷電されたアーティスト、それぞれの何をもって成功とするか。

 美術館での大きな企画で、取り上げられる。たった一人のひとが一生大切にしてくれる。誰からも認められず忘れられていく、、、。
 大きな時空に放り投げられて、乱雑に蠢く。

 アーティストの話ですが、別のものを行動原理とする有象無象も、そうかわりはないでしょう。

 ただ、社会的な評価は、人間の価値ではないということ、そこは、わけでおいた方が良さそうです。

第四十回


 アーティストは、どこまで、表現を求めるものなのか?そして、どのような承認を求めるていくものなのか?

 これは、社会の中で一人一人はどこまで、自己実現をできるのか、もしくは自由なのか、ということでもあるでしょう。
 アーティストというのはアスリートと同じで、その人の身体、知性を通過した技術によって表現することを期待されている存在ですから、身体の個別性、個体性というものと切ってもきれない関係にあります。
 ですから、個であること、その人であることに重きが置かれますが、
社会に投げ出された存在として考えたら、その存在の小ささというのは、僕らと対して変わらないものでしょう。

 社会の激流の中で、どのように育ち、どのような結末を迎えるのか、その人生航路で、僕らも彼らと、どこかで接触をするのですが、その一つの場所として画廊を考えると、画廊に足を運ぶにも、興味深いものがあると思います。

第四十一回

 最近、ギャラリーフェイストウフェイスの
秋場円貴さんの個展に行ってきました。

 秋場さんは、12歳の頃から、ぬいぐるみを作り続けて、総数は千体以上になっています。

 詳細は、ギャラリーフェイストウフェイスのサイトを読んでください。

 彼の通うところに、フェイストウフェイスの山本さんのパートナーの樹乃かにさんが、教えに行っていてその繋がりから今回の個展が実現したようです。



 商品として認められるためのアートに対して、秋場さんの作品は、自己実現としての表現でもあります。

 小さな画廊は、運営に多くの関わりが少ない分、小回りがききます。ネットワークの場が展開もしやすいです。

 さまざまなひとの交わりが、万華鏡のようなさまざまな顔をあらわす、足を運ぶこちらも、多くの刺激を受けます。

 そのライブ感は楽しいものです。そして、足を運んだ僕らも新しいネットワークのひとつになっているのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?