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【画廊探訪 No.163】“よりしろ”そのものの声を聴いて――佐藤茉莉・浅野井春奈展「よりしろの耳打ち」佐藤茉莉出品作品に寄せて―――

“よりしろ”そのものの声を聴いて
――佐藤茉莉・浅野井春奈展「よりしろの耳打ち」サンアイ・ギャラリー佐藤茉莉出品作品に寄せて―――

襾漫敏彦

 土をこねた魂に神が息吹を吹き込んで、人は想像されたと物の本には語られている。そして人は、物体に名を付けて意味を与えた。物質をよりしろとして、存在があらわれるように、意味は、己が宿るよりしろの物体を離れて存在し得るのだろうか。



 佐藤茉莉氏は物と対峙する造形作家である。様々な種類の物質を素材として表現を行う。木、石、金属。それでも、佐藤は物を利用して表現するのではない。表現を利用して、そこに染み出てくる物の本質を表している。物をよりしろとして、意味を付与しない。意味をよりしろとして、物を語っている。

 美術は、物を使った人の表現である。佐藤は、物に造形の意味を与えるが、付与した意味の名を超えて、物そのものが溢れるかのように造形を成す。顔を彫った木の表面は、崩れ落ちた枯れ木のようであり、白く焼かれた陶器の人形の顔は、滅びた国の宮殿で見つけられたように汚れひび割れている。擬人的な大根は、売り物にならぬと廃棄される寸前である。




 紙が土塊に息を吹き込み人を創造したように、人は物に名を付けて意味を与えた。そして、神を忘れても人が生きるように、物は、人が立ち去っても、そのものとしてあり続ける。時が流れて、人が老いるように、物も崩れ削られ腐蝕して姿を変える。


 美術は、物をよりしろとした人々の欲望の表現でもある。物を俳優として、美しくも下卑た舞台を描くこともできる。俳優が楽屋で化粧を落とし自分に戻るように、物も意味以前の姿がある。佐藤は自分が誰のものでもないように、物そのものの身体性を表すのだろう。

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佐藤茉莉さんの公式サイトは、見当たりませんが、WEBで検索すると、いろいろでてきます。

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