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花をあなたに(短編小説)

野々宮豊は行き詰まっていた。
長期の心身不調に加え、職も失い、肉親や親族とも遠い。
内臓疾患のため、医者から酒を禁じられていたが、近頃は浸り気味だ。
僅かな知人達とも連絡を断ち切り、心を閉ざしていた所、黒い煙のような人影が、彼の背後にまとわりつき始めた。

影は、野々宮の行きつけのバー辺りに定着し、終始彼を観察していたが、ひと月で十分と見たか、ある寒い夜、人の姿となって、野々宮のすぐ後から店へと入って行った。

野々宮はカウンターで黙々と水割りをあおっている。
一つ席を空けて、ジャケットスーツに丸眼鏡という長身痩躯の男が座った。

「おや、ハンカチを落とされてますよ」

項垂れる野々宮の足元から、チェック柄のハンカチを拾うと、彼の脇へそっと置く。
野々宮は顔も向けない。
どうでもいいという様子だ。
だが、丸眼鏡は野々宮に重ねて語りかける。

「あっ、失礼。みどり、と書かれてますね。前の人のかな」

野々宮は僅かにビクッと反応した。
すかさず「ご家族のですか?」と丸眼鏡が問いかけると、野々宮は物憂く首を横に振る。
彼は自分でも、何故ハッとしたのか分からない。
昔の辛い記憶に蓋をし続けた結果、大切なことなども忘れ去った。
それでいいのだ。

丸眼鏡はハンカチをマスターに手渡すと、半ば独りごちる調子で話し始めた。
「実は私の一人娘が『みどり』でしてね、持ち物に色々と名前を書いてやったものです」

野々宮は反応しない。丸眼鏡もそれ以上は続けない。
最初の接触はこれで十分だった。

その後も丸眼鏡はバーに現れ、さりげなく野々宮の視界に入る場所に座る。
たまに野々宮と目が合えば、微笑みと会釈を返す。

野々宮の荒んだ心は簡単に開かないが、少なくとも男への嫌悪感はないようだ。
そうした空気を丸眼鏡は読んでいる。
頃合いを見て、再度野々宮の近くに座ると、「お疲れのご様子だから、ただ聞き流して下さい」と切り出した。

「先日お足元に落ちていたハンカチに『みどり』という名前が書かれていて、私の娘の名前も『みどり』だ、ということは申したかと思います。
実は、今日がその娘の誕生日でしてね」

丸眼鏡の話に野々宮はほぼ興味を示さず、いつものように黙って俯いている。
しかし、丸眼鏡の次の言葉には無反応ではいられなかった。

「十歳になるはずでした。三年前に歩道を歩いていたら、猛スピードで走ってきた自転車にぶつかられまして。
地面で強く頭を打ったようで、二日後に亡くなりました。
悔しいことに、ひき逃げの自転車運転手は、まだ見つかってないんですよ」

丸眼鏡の口ぶりは淡々としていて、悲しみの抑制とも見える微笑みさえ浮かべている。
そこに惹かれたのか、野々宮は初めて相手の方へ顔を向けた。

しかし、全てはこの狡猾な悪魔である丸眼鏡の芝居なのだ。
元々ハンカチも彼が用意した。
一人娘の「みどり」など存在せず、よって、死んだことも嘘だ。
みんな野々宮の感情を掌の上で転がすための材料でしかない。

野々宮はまんまと丸眼鏡の作戦に引っ掛かりつつある。
「みどり」と「歩道を走る自転車」は、彼にとっての急所のようなものなのだ。

「いや、すみません。
何だか、あなたに聞いてほしくなって。
酔っておられても結構です。
ひとつ、判断をお願いできませんか。
私は残りの人生を、犯人探しと復讐に費やすべきか、否か。
あなたは、常識的に止めてくれるのではなく、もしそれ以外生き甲斐がないのであれば、そうしなさい、と言ってくれるようにも思う。
脱け殻のように生きることの無意味さを、あなたなら分かって下さる、と感じているのです」

野々宮は黙ったまま眉間にシワを寄せている。
元々声を出すのも億劫だが、この問いかけには絶句しているのだ。
そのうち彼は息が荒くなってきた。
突然どうしようもない憤りが湧き上がり、その勢いで、漸く彼は丸眼鏡に向かって言葉を絞り出した。

「丁度今、僕の頭は暴発しそうなので、もし一つあなたのために何かしてあげられるとしたら、あなたの代わりに復讐してあげたい。
それを僕の役割にしたいくらいです」

「いやいやいや! あなたが何故罪を犯さねばならないのですか。
ごめんなさい、いきなり変な話をして、あなたを混乱させてしまったようですね」

丸眼鏡は野々宮を宥めるような態度を取ったが、実はこれで全ての種を蒔き終わったのだった。
首尾は上々だ。

心身の衰弱に苛立つ野々宮にとって、最も憎むべき対象が、歩道を爆走する自転車なのだ。
数限りなく接触され、謝られたことさえない。
次こそは全ての鬱憤を叩きつけて、相手を車道へと蹴り倒してやる、などとドス黒く思い詰めてきた。

更に、余りに傷ましい記憶として長年蓋をし続けた上に、今のアルコール性記憶障害が味方して、本当に茫漠としているのが、幼馴染みである「みどり」の存在である。

丸眼鏡は野々宮の意識と無意識から材料を拾って組み合わせた。
結果、悔恨の対象である「みどり」と、今彼が最も憎悪している「歩道上の暴走自転車」への感情が絡み合って沸騰しているのだ。

丸眼鏡としては、近々野々宮が勝手に歩道上で事件を起こし、破滅的なゴールを迎えるのを待つだけでいい。
余裕の丸眼鏡は、野々宮の背中をそっと摩りながら、
私もどうかしてました、
あなたも感情をどうか収めて下さい、
でなきゃ私が悲しくなります、
さあ握手しましょう、
などと空々しく振る舞い続けた。

野々宮は虚ろに頷き、「もう大丈夫です」と応えたが、頭の中は暴風雨だ。
「お家までお送りしましょうか」と心にもないことを言う丸眼鏡を手で制して、野々宮は独りでフラフラと店を出た。
走る自転車を睨み付けながら、タクシーを拾うと、そのまま大人しくウチへと帰ったのだった。

その夜遅く、野々宮は寝付けないまま、自分を悲しく思っていた。
凶暴化の一途を辿る自分が恐ろしい。
そして、不安定な自分につけ込み、コントロールしようとしているのが、あの丸眼鏡であることを、野々宮は気づいていた。

丸眼鏡が自分の手を優しく取って握った時、汚れたエネルギーが掌を通して入ってきたのを感じ、
その時、丸眼鏡の顔に小狡い笑みが浮かんだのを、野々宮は見逃さなかったのだ。

(アイツは、豚を太らせるように、オレが出来るだけ残虐な事件を引き起こすように仕向けている。
そうした後に、オレの腐った生首を、地獄への土産にするつもりなのだ)。

それが分かっていながら、どうしようもないのが悔しい。
もし、アイツを出し抜くなら、今後外へ出ず、この部屋で一人悶死すればいい、などと再び暗い思いに沈んでいた。

眠れぬまま、野々宮は古いラジカセを引っ張り出すと、何十年も聴かなかった地元のラジオをつけてみた。

ベテランらしい男女のパーソナリティーが、落ち着いた雰囲気の中、番組を進めている。
リスナーからのメールを読み上げている様子だ。
ボンヤリ聞き流すつもりでいたが、どうもそのような軽い内容ではない。

「~この方のお便り。
……人間は何て脆い生き物でしょう。
自信の土台が崩れると、一人で立ち上がれない。
そもそも、自分を支えていた自信とは何だったのでしょうか。
それらを、自分一人で築いたのだと自惚れていたから、罰が当たったのかもしれません」

「続いては。
……生きる頼りを失くしました。
迷子になって、立ち竦んでいます。
誰からも相手にされず、
こんなに歳をとってから、子供返りして、メソメソ泣いています」

「さて、次の方。
……私は過去の輝かしい時代に足が挟まったまま、まだそこに一人で取り残されているのです。
皆んな誰もが時間の流れと一緒に進んでいるのに、何故私は前に進めないのでしょう。
生きてもがくのは辛すぎます。
いっそ完全に枯れてしまいたいのです」

「更に次の方。
……意欲がなければ、何も出来ない。
残酷です。
意欲のタンクが胸にあるとして、私のは、空っぽだと分かります。
何故だか、タンクの底に穴が開いていて、意欲を溜めておけないんだ。
そのやるせなさを、誰に分かって貰えると言うのでしょう」

「まだまだ、次の方。
……華やいで、若々しかった頃よ、
あの当時だって、悩みや障害物は山ほどあった。
それをやっつける生命力が漲っていたのだと思い返す。
老いるとは、衰えるとは、こういうことかと痛感します。
日々のルーチンにさえついて行けない。
不測の事態が立ちはだかると、足が震えて、へたり込むしかないなんて、
絶望します」

男女のパーソナリティーが代わる代わる紹介している訴えを、野々宮は聞いていられない気分だった。
ラジオを切りたいが、身体が動かない。
こうして向き合わされているものは、
野々宮の内側から滲み出る嘆きそのものであり、確認させられると、辛いばかりである。

男のパーソナリティーは、同情を抑えたトーンで、纏めにかかる。

「様々なお声が、一様に望んでおられることがあります。
~歌が欲しい、歌を聴かせて下さい~、
ということです」

そうか、これからリクエストの曲でも流すのだ。
それは傷ましい苦悶の数々を宥める一曲なのだろうか。
パーソナリティーはまだ喋り続けている。

「この、壊れた心に、
粉々に割れたガラスの残骸に、
そっと手を当てて下さい。
あの時代の余熱が救いとなる。
歌が、懐かしい誰かの善意の手となって、痛みを束の間和らげてくれる。
ひと時でも安らぎたい」

「歌を下さい。
昔が恋しい。
昔を共有できる歌が、一滴一滴、
この干涸らびた脳髄に、再生の潤いを与えてくれる、
そんな幻想が見たいのです。
このミイラの脳は、次の場所できっと新しい芽を出す、と思うのです」

では、と漸く、曲の準備が出来たようで、男女二人は
「適度なお水となりますように」
と前置きして、
「どうぞ」、と声を合わせる。

何の曲がかかるのかと思った野々宮を、次の瞬間、昔の何十曲ものイントロやAメロ、Bメロ、間奏部分、その他夥しいメロディーが束となり、その巨大な波が呑み込んだ。
大雑把のようで、それぞれの繊細な部分が皆、ナイフのように、いちいち野々宮の弱った胸を刺してゆくのだ。
彼は現実の大波に呑まれたように、布団に横たわった状態で溺死するところだった。

曲の波が引いたあと、男のパーソナリティーが口を開く。
少し口調が変わっている。

「疲れ果てた人よ、諦めるな。
悪魔も死神も、弱った人間を、ゲーム気分で狙ってる。
自分で一定の決まりを作って、その枠の中で、君を仕留めようとする。
あなたを一つの場所で待ち伏せるのが、悪魔かその下っ端なのだ。
そいつの思い通りにはなるな」

野々宮は、寝床に横たわりながら、苦しい息の中、このラジオ自体、死神か悪魔に支配されていて、自分は遊ばれているのではないかと思った。
一方で、先程自分が感じた、悪意ある者への怒りと反抗心が、幻覚のような形で現れているようにも思える。

「諦めるな」、か。
もし、自分が自分に言い聞かせたのであっても、これまで心の背骨が折れる寸前まで頑張ってきたのだ。
これ以上、どう耐えて、切り抜ければいいのか。
具体的な希望への道筋が見えないことには、いつか力尽きることになるのだ。

苦しみを堪えつつ、野々宮は、再度ラジオへと注意を向ける。
また何か、調子が変わっているようだ。

「さて、ここで割り込ませて頂きます」

女性のパーソナリティーが、幾分トーンの高い、明るめの声でそう言う。
何が割り込むのか。
女性はまたお便りのようなものを読み上げ始めている。

「あなたが辛そうにしてるのを、絶対放ってはおけません。
長く時間がかかりましたが、私は近くあなたに会いに行きます。
力になりますよ。
待ってて下さい。
花をあなたに」

続いて、普通のリクエスト番組のように、曲が流れてきた。
ピアノのイントロから、野々宮には聞き覚えがあった。
ユーミンの「A Happy New Year」だ。
寝床で横たわったままの野々宮は、不意に息が出来なくなる程、胸が締め付けられた。

何と長く長らく、忘れていたことだろう。
もう遥か遥か遠くにまで、あの時代は流れ去っている。
同い年のみどりは野々宮に、子供の頃から二十歳の頃まで、「ユタちゃん、ユタちゃん」と、親しく声をかけてくれた。
野々宮は彼女に頼りつつも、照れもあって、度々つっけんどんな態度を取った。
みどりはそれでも構わず、絶妙の距離を保って野々宮を気遣い続けた。
大学は別々になったものの、みどりは毎月一通は野々宮に手紙を寄越した。
他愛のない出来事の報告ばかりだったが、結びにいつも「花をあなたに」という言葉が添えられていた。
それが彼女固有の署名のようだった。

大学一回生の年末、みどりはカセットテープを同封した手紙をくれた。
テープに入っていたのは、ユーミンの最新アルバムの録音で、その最後の曲が
「A Happy New Year」だったのだ。
みどりは、その曲に触れて、
「私のユタちゃんへの思いそのものですよ」と綴っていた。
「では、良いお年を。花をあなたに」

野々宮はお礼の手紙も年賀状も出さず、テープもろくに聴かなかった。
聴かなかったのに、ラジオから流れてきた歌詞とメロディーに、苦しめられた。
「今年も沢山いいことが、
あなたにあるように、いつも、いつも」……。

みどりは大学二回生の春に、恐らくは本人も思いがけず、急性心不全で身罷った。
野々宮は、その報せに愕然とし、脱け殻のようになった。
最後の、いつもの調子の手紙を含め、それまで貰った全てのものを、発作的に焼却した。
余りにもいたたまれなかったのだ。

「何故オレは、あんなにも無償の善意で気にかけてくれた彼女に、ありがとうの一言も、素直に言えなかったのか」

気遣われる側の余裕で甘えていたのだと思うと、情けなかった。
苦悶を重ねる野々宮は、その先を生きるため、みどりのことを日常の意識から消し去るしかなかった。
全てが味気なく虚しいのは、彼女がいない証明だったが、就職後、日々同じ作業を機械のように繰り返すうちに、感情の乏しい、最初から枯れたような存在として細々とやり過ごすことは出来た。
しかし、生き甲斐のない人生ほど辛いものはない。
恋愛や結婚とも距離を取り、ただ黙々と働いて、得るものは独り者には充分の給料と、ポツポツ出てくる病気の類い。
挙げ句は、この歳になって、長年勤めた会社からリストラにあい、一層体調も悪化させ、もはや何のために日々を重ねているのか分からなくなっていた。

ラジオから流れた「A Happy New Year」に、野々宮は布団の中で嗚咽した。
これは、悪魔の作戦なのだろうか。
弱りきった自分を、一層追い詰めるために用意した、悪質極まる幻覚なのだろうか。

しかし、野々宮はその疑念を否定した。
そこには、純粋な、懐かしい思いやりが感じられたのだ。
こんな状況の自分に、
「今年も沢山いいことが」
と願ってくれる善意の粒子を、下等な悪意を持つ者が、決して真似て作ることなど出来はしない。

「花をあなたに」という合言葉が、メッセージに添えられていたではないか。
これは、みどりが自分に寄せてくれた思いに他ならない。
しかし、今のこの余りにも不甲斐ない自分の有り様が申し訳なさ過ぎる。
野々宮はただただ、子供のようにすすり泣くしかなかった。

泣き疲れたのか、野々宮はいつの間にか寝入っていた。
ふと何かの音に目を覚ます。
何故かラジオのスイッチは切れていた。

音は寝ている足元の、全面サッシ窓の外から聞こえる。
チリーンという鈴の音だ。
野々宮の部屋は集合住宅の一階部分で、カーテンと窓を開けると、二畳分くらいのベランダがある。
その下に、山吹や雪柳の植え込みがあるのだが、春もまだ遠いこの時期、枯れ枝の茂みがあるばかりだ。

その茂みの中に、小さな人影がボンヤリ見える。
灯りもないのに、頭巾をかぶり、その上に編み笠を乗せている、着物姿の幼い女の子だと分かった。
右手の鈴を鳴らし、
「いらんかえ」
とかわいい声をかけてくる。

野々宮は夢うつつながら、
「何を売っているの?」
と問いかけた。
子供は
「鳴く虫か蝶々のサナギ」
と答える。

「こんな寒い時期に鳴く虫がいるの?」

童女は
「キンヒバリという綺麗な声で鳴く、小さなコオロギがいます」
と返す。

「一匹いくら?」

「五百円」

野々宮は何か買うつもりになっていたが、彼女は
「ここには虫を持ってきてないので、ミヤガワ町のマルキ商店へ取りに行って下さい。
お代もその時でいいです」
と、野々宮を見上げながら言う。

そうか、この子は御用聞きなのだ。
野々宮はお菓子でも包んで渡したかったが、あいにく何もない。
と、気づいた時には、もう童女の姿はかき消されていた。

翌朝、野々宮は寝床に起き直り、どこからどこまでが夢なのだろう、と考えた。
ラジオでかかったユーミンさえ夢だったのか。
或いは、全てが、自らの発する思念に絡みつく、様々な、明確な作用だったのか。

しかし、「花をあなたに」という言葉とあの曲のお蔭で、長らく重い蓋を乗せていた記憶が解放された。
塗炭の苦しみをなめたが、みどりのことを忘れたままでいる自分は醜かったとも思える。

あの、小さな女の子が何かの遣いか、ということは深く考える必要もない。
夢だとも、もはや思わない。
迷わず、言われた場所へ行ってみることにした。

観光地で賑わう通りから路地を一筋入るだけで、嘘のように静かになる。
野々宮は、初めてながら懐かしい感覚で、緩やかな坂を辿ってゆく。

古びた看板が見えた。確かにマルキ商店というのがある。
ガラスの引き戸には内側からカーテンが掛かり、呼び鈴は見当たらない。

野々宮はガラス戸を軽くノックしようとした。
すると、その前に内側からカーテンが開き、人の良さそうなお年寄りが笑顔をこちらに向ける。
程なく引き戸は開けられ、
「やあやあ、いらっしゃい。
陰気くさくて何もありませんが、中へどうぞ」
と招き入れられた。

野々宮は童女のことを口にしない。
白髪で痩せた店主も当たり前のように振る舞っている。
早速、店の奥の土間へと導くと、大寒の頃なのに、澄んだ虫の音の合唱にフワッと包み込まれた。

「このキンヒバリは、水辺の葭原などにすむ、7㍉程のコオロギです。
基本幼虫越冬で、晩春から鳴き始めますが、こうして室内で育てると、正月くらいから鳴き声が楽しめます」

瓶にくっついてる虫の姿も見せて貰った。
黄金色で触角が長く、繊細な美しい姿だった。
野々宮は興味深く見つめていたが、老店主は不意に、
「お客様には、キンヒバリも良いかと思いますが、サナギの方がお勧めです。
お好きなサナギをお選び下さい」
と言う。

野々宮の反応も構わず、更に奥の薄暗い壁際に導くと、棚に並べた小瓶を示した。
目を凝らすと、確かにそれぞれ蝶のサナギらしきものが入っている。
名札シールには、アゲハ、アオスジアゲハ、などと書かれていた。
ただ一つ、名札のないものがある。
他のものより一回り大きく、作り物のような金属光沢があり、一際目を引いた。

「沖縄にいる、オオゴマダラという蝶のサナギによく似ていますが、
あれは垂蛹(すいよう)、逆さまにぶら下がるヤツで、
これはアゲハと同じ、糸で身体を支える
帯蛹(たいよう)です。
とても珍しい種類なので、どうです、これをお持ち帰りになって、何が羽化するか、楽しみにされる、というのは?」

野々宮は迷うこともなく、同意した。
余りに美しい蛹の虜になったのだ。

「お代は千円、ということで。
きっと後悔はされませんよ」
店主は優しく微笑んだ。

その日から野々宮の心は穏やかになった。
もう、入り浸っていたバーからは気持ちもすっかり離れている。
机の上に置いた瓶の中身を、飽きることなく眺め、どんな美しい蝶が羽化するのか、と考えると、楽しみで仕方がなかった。
この小さな生命には、残った愛情の全てを注ぎ込める、と思った。
胸が高鳴るような感覚は、とうに忘れていたものだ。

昼間は本屋や図書館などに通い、何かしなければ、ではなく、何かしたいことを見つけたいな、と思うようになった。

そうしている内に、十日程が過ぎ去り、
ある晩、野々宮はいつものように蛹を心行くまで眺めたのち、消灯した。
すぐ寝付けたのだが、真夜中に、パッと目が覚めた。

何気なく机の方を見ると、サナギの瓶がボンヤリ青白く光っている。
驚いた野々宮が近寄ると、まさにサナギの上部から側面へと割れ目が入り、羽化が始まろうとしているところだった。

二本の触角が出て、蝶の頭が現れるのかと思いきや、緑色の濡れ髪が見えた。
続いてクシャクシャの羽がついた背中、するりと殻を抜けて枯れ枝にしがみついたのは、白く輝く細い四肢。
まるでフィギュアのような女性の全身があらわになった。

息を飲む野々宮をよそに、殻を抜けた存在は、急速に羽を伸ばし始める。
エメラルドとライトオレンジを基調とした模様全体が、モルフォチョウのような強い光沢を放っている。

髪はショートボブ風に乾き、突き出た触角が瑞々しい。
ボアを纏ったような身体から美しい四肢が伸び、伸びきった羽は、ゆっくりと開閉を始めている。

羽化したのは妖精だったのだ。
それだけでも野々宮は呆然となっているのだが、俯いた妖精が、背筋を伸ばすように顔を上げ、野々宮の方を向いた時、彼は気が遠くなる程の衝撃を受けた。

その顔は、二十歳で亡くなったみどりと瓜二つだったのだ。
いや、それは、みどりなのだ。
妖精の姿として甦ったみどりは、野々宮に懐かしい笑顔を見せると、ふっと宙に浮き、羽ばたきながら、両手を広げ、勢いよく彼の胸の方へ飛び込んできた。

「あっ」と声をあげた野々宮は、バッと飛び起きる。
朝だった。
何だ夢か、とガッカリした野々宮だったが、机の上の瓶を見て驚いた。
サナギはもう脱け殻だったのだ。

野々宮はカーテンの周辺など、慎重に蝶を探した。
天井にも壁にも棚にも止まっていない。
もしかすると、どこかに落っこちて挟まっているのだろうか。
そう思った野々宮は、半日がかりで家具を動かしたりして探したものの、生きた蝶も死骸も見つけることは出来なかった。

すっかり気落ちした野々宮は、小瓶に入ったサナギの脱け殻を持って、それを買った店へと向かった。
あの優しげな店主に残念な報告をするのは辛いが、居ても立ってもいられなかったのだ。

迎えてくれた店主は、野々宮が手にした小瓶を目にするや、
「おめでとうございます。羽化したのですね」
と満面の笑みで喜んでくれた。
しかし野々宮は、羽化した本体が部屋のどこにも見つからないことを素直に告げ、後は黙って項垂れた。

老店主は、
「羽化した本体を、本当にご覧になってないのですか?」
と穏やかに野々宮の顔を覗き込む。

「朝起きたら、もう殻でした。外へ出る隙間もないし、後で物陰なんかに死骸が見つかったら、やりきれなくて」

すると店主は、
「あなたがご覧にならないはずはないのですよ」
と言う。

「いいえ。ただ、そう言えば、見た夢の中では、妖精が出てきたのです。
その顔もよく知った人だった。
あれは、僕の切実な願望だったのでしょうけど」

野々宮がそう言うと、店主は嬉しそうにニコニコ笑った。

「ほら、ご覧になってた。
そうです、これは妖精のサナギだったのです。
中には、形になりたがっている、あなたへの好意の粒子がつまっていた。
あなたの心も、それを求めておられた。
そうした所へウチの遣いは現れます。
互いに思い合う力で、妖精は姿形が出来上がり、羽化できた。
その存在は、ひたすらあなたの役に立とうとします。
一瞬にして、あなたの胸にとびこんだでしょう?
あなたの心の中を、あちこち飛び回り、無数の花を添えながら、あなたを守るのです。
あなたの中にいるのだから、いつでもご一緒ですよ」

お伽話のような店主の言葉を、野々宮は一点の曇りもなく信じることが出来た。
店主は野々宮から受け取った小瓶から小枝を抜き取ると、もうサナギの脱け殻は跡形もない。
店主はいたずらっぽく笑う。

「どうです、千円はお買い得でしたね?」

さて、これで大団円としてもいいはずだ。
しかし、野々宮は、日々益々心豊かに過ごせるようになる中、あの男のことを思わざるを得なかった。
自分がバーに来なくなったことに苛立っているはずの、丸眼鏡男だ。
何故か、彼のことを無視したままで良いとは思えなかった。

沈丁花の香りが風に乗ってくる早春の夜、野々宮は久しぶりにバーの扉を開けた。
丸眼鏡は目につくところに座っている。
多少やつれた印象だ。
野々宮はさりげなく近くに座る。
丸眼鏡はやや悔しそうな顔を振り向かせた。

「おや、暫くぶりで。お元気になられたようですね」

野々宮は物静かに会釈すると、
「君の計画通り、僕は崩壊寸前だった。
でも、そこから救ってくれたのは、君が思い出させてくれた存在であり、
考えようによっては、君のお蔭だとも言える」
と言う。

丸眼鏡は一つ溜め息を吐いた後、唐突にこんなことを語り始めた。

「まず、とある男がいた。
彼は生真面目で傷つきやすいが、プライドは高く、悩みを簡単には外へ持ちかけない。
結果、孤立と虚無とを深め、心が壊れてしまった。
彼は自分自身を助けられない。
そんな彼の苦悶する影が、苦し紛れに分裂して独立した。
そいつは、苦しいから、死に物狂いで、自分を楽にさせる方法を探す。
安定した自分を保つために、自分の持ち場を持とうとした。
そうして、その影は、病んだ魂を地獄へ送り込む仕事を得て、何とか落ち着いた。
まあ、そういう所です」

野々宮は俯いて黙り込んだ。
そういうことなのか。
自分が蔑ろにした自分の影に追い詰められていたとは。
因果とはそういうものだ。

丸眼鏡は気怠そうに続ける。

「もう少しだったな。
ここで待つだけで、酒浸りのあんたは自動的にやってくる。
念を入れて、部屋にまで入れる設定にしておけば良かった。
本体を引っ張ることで、あんたも、オレも同時に解放されると思った。
もう、これでお終い、区切りで消滅、と行きたかったんだが、オレだけ取り残されたよ」

野々宮は、黙ったまま、丸眼鏡に対して、すっと右手を差し伸べた。

「こうしよう。
この手を通して、君が僕を引っ張れるか、僕が、君へのせめてものお詫びを手渡せるか、試してみよう。
きみが僕を道連れに出来るか、僕が自分も君をも救えるか、そんなゲームでもある。
握手をするように、握り返してくれないか」

丸眼鏡は一瞬戸惑ったものの、次の瞬間、ふと口許に笑みを浮かべた。
単純に、もう一枚カードが残っていたのを無邪気に喜んだようでもある。
続けて、素直な素振りで野々宮の手を握り返す。
すると、みるみるその身体が震え出すのだった。

「何だ、これは!
何かがオレの中に流れ込んで来たぞ!」

「それなら良かった。
君が僕の生命を吸い取ろうとする思いより、こちらの、君への、申し訳ない思いの方が強かったのだ。
最初はちょっと慣れないだろうけど、僕が救われたのと同じようなことが起こると信じている。
また、新しく、心が弾むような日々を、共に作ってゆこう」

野々宮はそう言って、静かに席を立ち、店を出ていった。
腹痛を起こしたようにウンウン唸っている丸眼鏡は、果てなく暗黒だった内面部に、美しい花園が広がってゆくのを感じていた。
苛立ちとひねくれとがベースだった自分だから、いざ浄化されるとなると、心細さで動転する。

しかし、こうして、花に埋もれながら、静かに微睡んでゆくのも心地よく思えてきた。
拗ねた子供が泣き疲れて眠る時、頼りになる大人達が、代わる代わる撫でてくれる感覚だ。
何か懐かしい香りもする。
寄り添ってくれる存在の温もりが感じられた時、死神モドキを演じていた影は、元の場所に帰って行く自分を、穏やかに受け入れていた。
                                                                (了)




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