長い一日の翌朝、その3

ゴミを出した。

ウチのゴミステーションは、スクールゾーンの一方通行の狭い道沿いなので、平日8時30分までは車が入れない。
なので、ゴミ出しの時間は朝8時なのだけれど、実質8時半なのである。早い日は半過ぎにゴミ収集車が来る。遅い日もあり、それは把握していないけれども。

ごくごく稀に、どうしても平日車が要る場合、いつも通り3人で車でスクールバス停の近くまで行ったあと、娘をバスに乗せて見送ってから、夫に車を回してきてもらって一緒に会社へ行くような時は、8時半までアパートの駐車場まで逆走できない(迂回が面倒)ので、朝もやってるスーパーに行ったり実家に行ったりして待つので、一方通行を面倒に思うこともあるのだけれど。

今日は、そのおかげさまで、感情と脳内1人語り止まりません状態をこうしてかくことでなだめたりしながら、

そして、いくつかの気づきと、ばーちゃんへの感謝と、夫のありがたみを感じながら、だれんごと(疲れないように)ゴミ出しができた。

書いてて思うが、どーにもダラダラした文章である。
(ホント、読まなくていいです。読んでる方、申し訳ないです)

なんちゅーか、、、ほんとに、なんて言えばいいのか分かりませんが。

とりあえず、一言書きたいことを書いておきますと。

ありがたいことに、ノーマスクでも大丈夫な状態(ひさしぶりに会うとき、ちょっと立ち話する人には会わないで)ゴミ出しが出来まして。
(まあ会ったとしても、ノーマスクでも小声で挨拶はし合いますが)

学生さんっぽい人が歩きスマホで来たので反射的に身体が軽い会釈をして家に入ったのですが。

今朝の。
あの、誰だっけー?ってお兄さんは。
多分。
もしかしたらだけど。

もしかしたらなんだけども。
あの人が、私の通りすがり方がいつもと同じでないのを見て。
初めて、「おはようございます」と発声してくれたのかもしれない。

私は、外ではノーマスクOKになってから、一人で歩く時は、ほぼ、マスクを握って歩く。

だけど今朝は。
バス停のママ友未満の先輩ママさんと話す時、マスクをやや引っ張りながら呼吸してて、別れてからそのまんまの鼻だしマスクで歩いていたので。というか、意識して鼻呼吸してて、マスクの感じを忘れてたので。

いつも通り歩いてたし、いつも通り誰か知らんけどすれ違う人たちと会釈未満のうつむきをしたり小声で挨拶しあったりしてたし、なんにも違和感なく10分ほど歩いてきてたから気づかなかったんだけれども。

あのお兄さんのおかげで、初めて、「いつもと違う私で歩いてたのだ」と分かり、そして、初めて青年らしい声の挨拶を貰い、初めてその人と「発声あり会釈」をさせていただき、初めてその人の顔をまともに見た。その声は私の意識を現実に引き戻してくれたというか、脳内独り言フワフワ状態を一時中断させてくれたというか、まあとにかくいろいろとありがたくて、ちょっと、泣きそうになったり、した。

挨拶というのは。声かけというのは。会釈というのは。
してもしなくてもいいというか、場所と状況と関係性によるというか。
まあ、「そーいうもん」なのだけれども。

なんというか。
それは、ここ数日で感じた「昔ながらの慣習」や「あたりまえの生活音」と同様のものであって。

お風呂の排水溝のゴミ、実家は溜まるとこが見えるから、以前ばーちゃんが「誰それは髪を捨てて上がらんかったねえ」と言った。
「ちゃんと捨てんね」とは、言わない人だった。

「私も捨てちょらんかったかも。ごめんねえ」と言うと
「忘るっこともあっけど、次ん人が気持っが悪かからねえ」
(忘れることもあるけど、次にお風呂に入る人が気持ち悪いからね)と言っていた。

ばーちゃんは落ちている髪を拾う人だった。
ゆっくり、だけどたいがい取り損ねることなく。
トイレに行くのがしんどくなってからも。骨折して入院して家に戻ってからどうだったのかは思い出せないけれども。

「あー、私が拾うよ」と言うと、「よかよか。後でお母さんがはわくが」(いいよいいよ、後でお母さんが掃き掃除するから)と言った。
だから、私は、「落ちている髪が気になった時……これ、ばーちゃんが見たらまた拾うよねえ」と思う場合だけ、さりげなく拾うか、一回で拾えなかったらすぐ目につかないところに払うクセがついた。おかげで、以前よりはスムーズに、落ちている髪の毛などを拾う動作を身につけられた。

「目につく不快を取り除く」、それが祖母にとっての「掃除」だったのだろう。義務や家事労働ではなくて。
「気ぃついた人がすればいいのよ」(気がついた人がすればいい)
「ホコリは噛ん殺さん」(埃は人を噛み殺したりしないから、無理に掃除しなくても大丈夫)と、言う人だった。

今、思うのは。
その動作が。
血流を良くする運動であり、祖母をこういう風に生かしてくれたのだろうと思う。

動きがゆっくりだけれどもオムツを使うようになっても頑として自力でトイレに行き、まれに間に合わないことがあっても入院してても病院内移動が車椅子であっても、「楽だからオムツに出せばいい、替えてもらえば済む」という思考にはならなかったようだ。

そして。
「気にならなかったら放っておくし、気になったら拾う」という、私のゴミや落ち髪に対する生活習慣になったのだ、と思う。

私はズボラさんなので。
あんまりマメに掃除しなかったりするんだけれども。
そして、落ちているゴミも、拾ったり放置してたりなんだけれども。

整理整頓についても。
夫の方が得意なので、私は全く気にならないのに夫がたまに冷蔵庫整理してたりするんだけれども。

なんというか。
ばーちゃんのおかげで、「放置・他力本願能力(罪悪感を持たずにやりたい人にお任せして感謝する力)」と、「やれる時にはできる範囲で快適な状態を作ろうとする力」が身についたような気がする。

なので。
ウチでは、布団を敷く、各部屋のゴミを集める(排水溝のネットのは私がやるけど)、お風呂の浴槽を洗うなどの作業は、自然と「気づいた方がやる」形になっている。お風呂は、いちいち確認が面倒なので、風呂フタが浴槽内に立ててあれば洗ってある印ということにしている。

本当なら、営業職の夫は毎日ホントにお疲れさんなので、家事能力とハウスキーピング力、育児能力が高くない妻で申し訳ないのだけれども。
「君のお母さんと結婚したかった」
「君に丸投げできるならするんだけれども」
「内助の功という響きが羨ましい」などと、
折に触れ、常々言われるのだけれども。

夫は一度私が注意してからは決してタバコのポイ捨てをしなくなったし、余裕のある燃えるゴミの日の朝(娘を送る時に出してしまえる時)はゴミ集めしてくれることもあるし、道に落ちていたゴミを拾ってくれたりするのである。

それは、「排水溝に捨てたら君が激怒したから」「君が拾わなくていいようにしてるだけだから(ちょっとイイ男風に言う)」だからだそうだけれども。

なので、サークルのお姉さま方には「旦那さまの爪の垢を送って欲しい」と言われるのだけれども。(若い人には意味不明かもだけど、爪の垢を煎じて飲ませるとその人の能力が身につくという言い伝えがあるので、自分の夫に飲ませて妻のフォロー力を得させたい、ということ)

それは、夫の能力というよりは、私がばーちゃんと暮らす日々でばーちゃんを不快にさせたくない思いで新たな生活習慣を身につけたのと同じで、夫が妻の再入院を避けるためにどうすればいいか考えて身につけてくれた習慣なのだと思う。

ばーちゃんは、トイレの便器に使用済み湿布を貼っていた。
用を足すとき、気になるところにペタペタやれば、不快なゴミが楽に取れるから。ホントーに現代的な「おばあちゃんの知恵袋」!

……今、サークルのアプリの通知で、山口のお姉さまのコロナ抗原検査結果が陰性でした……という投稿文の一部が表示されました。
良かった!ホントに良かった!!

なんというありがたい、元氣をもらえる報告であることか。
そして、今また、仙台の方の返信(スタンプ)という表示が出た。
結果を気になさっていて、通知音に反応されたのだろう。

私は体調や用事により、通知音オフ設定にしたりしなかったりなので、とりあえず「超いいね」の印をつけて、やることやってからお返事を書こうかな。


嬉しい「やること」があると、家事をする力も湧くというものですよ。

とりあえず、今はこれにて。




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