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母と子ではなく、ヒトとヒト。

日比野のコドモ観
日比野オヤコの関係性

はじめに

こんばんは
子持ち日比野です。

私には子供がいます。
どこかでまた書くと思います。


私はママじゃない

人生未熟者な日比野は
自分から産まれてきた子供に対して
「私はママじゃない」
「私は日比野だ」


我が子がこの世に舞い降りた瞬間から
そのように言っている。

産めば母親になれるとも思っていないし、
母親と呼ばせるほど出来た人間でもないと
自己肯定感のなさで
こんな拗れ方をしているが。

コドモ氏には申し訳ない。

根本は
人と人、1人と1人の関係であり
母と子、教育者と学習者の関係はナンカ好かん
というところから来ている。

どんな相手でも
人の上に立つのが苦手なのだ。

自分で見出した母役の親ではなく
子供が認めた母親になりたいのだ。

教育者と学習者は語弊があるが、
言いたいことの
ニュアンスを感じていただけたら幸いです。

そんなふうに
1人と1人の人間だと思っているため
「〜しなさい」だの
「〜はダメ」だの
干渉する言葉も苦手なのだ。

私自身が育った環境から
来ているのかも知れないが。


コドモ氏への思い

だから
やりたいことは伸び伸びすれば良いし
嫌なことはやらなくてもいいと思っている。

とにかく親の顔色を伺わないで
自分勝手に好きなように思うがままに
生きてくれ
れば良いなと。
(人様に迷惑をかけることはいけないが)

けれど
自分で引き起こした結果は受け入れて
責任はとれよ
とは思う。

きっと冷たい親だ。

ヒトとヒトと思うからこそ
良い意味でも悪い意味でも
一線を引いてしまう。

私のような親は
もしかしたら少ないのかもしれない。

自己中な子供になってしまうのではと
不安に思うこともある。

しかしは持っていて
(何を愛というのかは、また次に)

1人と1人だからこそ
大好きなこの人を友人に紹介したいし
一緒にいてくれるからこそ大切にしたいし

人付き合いを妥協せずに
その人とのイマを大切にしているという
感覚だ。

だいぶ美化したかもしれない。


日比野とコドモ

もちろん
ご飯を投げつけられたり
部屋を汚されたりもするが
そりゃ自分以外の人だから当たり前と思う。

自分の行動は自分の意志でコントロールできるけど
ヒトの行動をワタシが決めれる訳がない。

自分の求める結果を
相手に期待するのはずうずうしいのだ。

だから自分の求める像を
期待しない。
求めない。

だって決めるのはコドモ氏だから

結果的には
この思考というか関係性で
ストレスを感じずに子育てしている。

自分の子供ではなく
ひとりの人だからこそ
思い通りにいかない前提だからだ。

だからこそ
機嫌はとりにいくし
好きなものや嫌いなもの
ハマっている遊びなどのリサーチも怠らない。

そういう
母役をやらない
その辺のオトナの日比野
である。





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