オタクは粉微塵になって消滅した
オタクの死に時っていつなのだろう。時間の経過では意外と死ねなかった。
私には推しが居た。仮に名前をAとしよう。
Aの出るイベントには毎回参加するほど、本当に大好きだった。
ある時、突然活動を休止し、そのまま引退という形になった。
ただただ悲しかった。悲しみに任せて、運営会社をいっちょ前に批判したこともよく覚えている。そんなことをしたって何もならないのに。自分がちゃんと応援してこなかったことの償いにもならないのに。
それから、なんだかんだ時が流れ、ちゃんとその気持ちを消化できなかった私は、しばらくその思いを抱え続けた。
オタクの熱量とは不思議なもので、時間が経って、落ち着くことはあっても、忘れないし、嫌いにも結局なれなかったりする。ただ私がめんどくさいオタクなだけかもしれない。クソでか主語でごめんなさい。
とにかく、そんなある日にAをインターネット上で見かけた。
顔も違えば、名前も違う。でも、声と中身は一緒だと。すぐに分かってしまった。
正直、複雑な気持ちだった。また見つけられて喜んでいたのか、あれだけ引退の時にオタクを悲しませたのに、何食わぬ顔で戻ってきてムカついていたのか。それとも、そうでもしないと帰ってこれないのが悲しかったのか。
しばらく混乱してしまったけど、翌日になってよく考えてみると、素直に嬉しかった。健康で、元気で、また自分の意思で、好きなように活動出来ていて。
新しい生を歩んでいるAを、推しを受け入れたその瞬間に、色々なしがらみから解放された気がした。
引退の時の悲しい気持ちも、引退後のAを忘れてはいけないという気持ちも、活動していた時の楽しくて幸せだった気持ちも。全てが思い出に変わっていく。アルバムのように。
私はこれから、きっとAを引きずることはないだろう。Aはもう新しい世界で楽しんでいる。新しいAを愛する、大切な人に囲まれて。そこに私が入って、古いAを求めるのはナンセンスだ。
『オタクの死に時』だった。
『オタク』は、推しが幸せな余生を過ごしている瞬間を、それを目の当たりにするだけで、死ねるのだ。
弱いオタクは死に方すら選べないから。せめて幸せに死にたい。笑って、「ああ、良い思い出だった」、そんなことを思いながら、あたたかな気持ちのまま、推しに殺されたい。
全世界の『推し』、『オタク』のために幸せであってくれ。そうすることで、『オタク』も新しい生を歩み始められるから。
グッバイ、推し。
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