[口承とインターネット]怪談のいま昔

 所謂「怪談」という種の物語がある。
 なんとなく「怖い話」という印象が強くなっている感じはあるけれど、もともとは因縁話や不可思議な話という側面の強いジャンルだ。
 現代的な怪談の始まりは小泉八雲の「怪談」だと思っているけれど、その中でも所謂「恐怖譚」というのは少なくて、場合によっては登場人物の方が登場する怪異よりよほど恐ろしかったりする。
 それに対して、最も新しい部類の怪談はかなり直接的な恐怖を描く場合が多いように思う。
 例えば「コトリバコ」や「猿夢」なんかのネットロアと呼ばれる、インターネット上に囁かれる都市伝説である。
 
 囁かれる。
 何気なく使ったこの言葉が、今と昔の怪談の違いを大きくしていると、個人的には思っている。
 
 小泉八雲の怪談に収録された物語は、古文書に記録された物語の翻訳も含まれてはいるものの、八雲の妻が知人や商人などから採集した物語も多いという。
 更に遡って伝説や噂話を残した手段は、文書記録もあるとはいえ、最も根付いたやり方は口承、つまり対人で「物を語る」というもの。
 人間同士で物事を伝えるのに際して、そこには必ずエラーが存在する。
 語り口調や情報の取捨選択、立場に応じた舞台設定などの恣意的な変更。こうしたエラーとノイズを組み込んで、街道沿いに怪談は拡散され、各地域に根付いた物語に変わっていく。
 遠く離れた場所で、名前も異なるのに同じような現象を起こす怪異が伝えられていたり、名前だけ同じでまったく違う現象を起こす怪異譚があったり。
 その土地土地の土壌や都合を織り込んで、それぞれの土地独自の怪談として熟成されていく。
 こうした経過を取る物語の伝播は今でも細々と続いてはいるであろうが、現在ではもっと直接的な物語の伝播が存在している。

 インターネットだ。
 大規模なネット掲示板などを媒介に、全国どこにいても同じ物語を同時的に共有することができる。
 ネットロアと呼ばれる、都市伝説の一種としてカウントされる現代の怪談は、受け手からの情報としては文字情報しか無い。
 口承の物語は、口調の緩急やアクセントなどでニュアンスを変えられるのに反し、ネットの文字情報というのはあくまで平坦に文章を伝える。
 受け手側の思考力、想像力によって受ける印象に大きな差が生じるのである。
 
 口承の怪談で、現代で最も大きな影響力を持ったのは、おそらく口裂け女であろう。
 1980年代の小・中学生の間で爆発的に広まり、社会現象にもなったこの怪談ではあるけれど、実際のところ遭遇者に対して直接的な被害を及ぼすものではない。
 当然、対応を誤ればそれなりの事をしてくるのだが、物語の中にきちんと、口裂け女の苦手なものや避け方が一緒に伝えられている。
 地域差はあれど、おおむねポマードという言葉や、丁重な対応をする事でお引き取り願える事は誰でも知識として知っていたのである。
 そこから察するに、口承の物語というのはあくまで集団の中で感情的に伝播することで連鎖的にパニックを引き起こすものであるという事だ。
 受け手側で情報を整理し、要素要素を分解していけば、恐怖的な要素はあれど、受け流すことが出来るのである。
 
 しかし、今のネットロアというのは、遭遇すれば終わりに直結する舞台装置のような怪異が多い印象を受ける。
「くねくね」や「きさらぎ駅」、「コトリバコ」などは解りやすいと思う。
 その現象に遭遇した時点で、ある程度の悪影響を及ぼす仕掛けなのだ。
  そのようになったのは、怪談に求められる本質が変わったからではないかと考えている。
 
 口承の怪談は、土地土地で熟成され、構成要素が変化していく事は先に書かせていただいた。
 つまりその土地でのタブーや習慣を含んだ上で、その土地の人間に最も効果的に作り替えられている。
 それはその土地で生きる上での教養として語られる側面もあり、聞いて知っておく、話して理解する事で生きる知識を得ることでもあるのだと思う。
 当然、当事者同士で情報を共有する意外にも、コミュニケーションを促進する意味合いもある。
 娯楽は心を豊かにし、生き方をより良くするからだ。
 
 それに対して、ネット上の物語は作られる元々の目的が娯楽そのものであることが大きな違いである。
 また、文字情報だけで伝えられることから、受け手側の想像力などに差があったとしてもそれなりの恐怖を覚えさせる物語として作られている事も大きい。
 誰でも解りやすく楽しめる(=怖い)物語として設計される物語が、現在のネットロアと呼ばれるものだと僕は考えている。
 
「裏世界ピクニック」という、まさにネットロアを題材にした小説があり、たまたま2巻の発売のタイミングから読み続けていて、漫画版も読んだり、これからのアニメ版も楽しみにしているところではあります。
 ただ、漫画版でどうしても楽しみになりきれない部分が、まさにネットロアを視覚化した部分だったりします。
 絵としてのクオリティは非常に高いので、楽しめない自分が悪いのだとも思いますが、やはり文章として読む方が面白いし、恐怖心は覚えられます。
 アニメ版でどのような表現を取るのかは気になりますが…。
 ハヤカワ書房作成の実写映像を混ぜたPVは面白そうでしたけどね。
 
 結論らしい結論がないのが申し訳無いですが、時代に最適化された情報伝達手段と、それに合わせた内容の変化は、どちらが先に起こるのでしょうね?

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