[ 情報の集積と消費 ]

 この世に存在している事柄は、全て情報であるという考え方がある。
 1個人を形成するのは、人間という情報に加えて個人を形成する情報(性別や環境、嗜好といった)の積み重ねであると言う考え方だ。
 それは人間に限らず、認識できるすべてに同じ事が言えると。
 いまこの世界には様々な情報が溢れていて、同時進行的に新たな情報が発生し、同時に浪費されていく。
 
 この記事で書きたいのはまさにその「浪費される情報」という部分だったりする。
 人間は刺激を求める生き物で、世間一般にありふれた情報というのは重要度に関わらず刺激が少ないという前提がある。
 対してある種センセーショナルだったりセンシティブな情報や、新鮮味のある情報というのは非常に刺激的で、受け取った側に情報処理の快感を与える。
 人間な知る事に快感を見出す生き物だから。
 なのでメディアに晒されている人間は常に消費される情報であり、メディア上で活動を続けるには常に刺激を与え得る情報の強度を持ち続けなくてはならない。
 マンネリは必要であるし息抜きにはなるけれど、それだけでは成立しないのと似ている。
 
 以前の記事でセンシティブでインパクトを与えることが出来ると書いたのはその部分で、普段触れないタイプの情報に人は刺激を受ける。
 つまりセンシティブとは飛び道具的な扱いをする事でその刺激性を担保していて、それだけを売りにしていては刺激性が損なわれるということ。
 なので僕はレベルの高い表現者ならセンシティブさを出さずに主題という情報を伝えて欲しいのです。
 
 瞬間的に与えるインパクトが少ない分野で活躍し続ける事の難しさを考えると恐ろしくなります。
 同じ主題を伝えるのに、ロックとアコースティックでどれだけインパクトが違うでしょうか。
 センシティブである事で一点突破的に主題を伝えられますが、そうで無い場合は時間をかけて説得力を持たせながら説いてゆくしかないのです。
 
 表現としてレベルが高いとは、センシティブさだけで主題を伝えるので無く、説得力をもって説き伏せられる能力をもつ事だと僕は信じています。
 それは音楽や写真、文章も変わらずだと思っています。
 
 表現者は受け手からすれば新たな情報の担い手であり、浪費されゆくものだと思います。
 作品のもつ情報が受け手にどんな影響を及ぼすかも解らずに、一方的に浪費される情報が表現者です。
 しかし(正しいか否かはともかく)伝わった情報は、受け手の中に集積され、存在する情報と掛け合わされて新たな形態をもち、更に情報として伝播・浪費されていきます。
 
 今の世の中、嫌でも情報は溢れかえっていて、自分が発した些末な情報などすぐに紛れて消えてしまっています。
 しかし、情報の浪費という過程を経て、自分が誰かにほんの少しでも影響が与えられたのならば、きっとその情報が忘れられない限り、自分がいた証明になるのだろうなぁと。
 そう思っておくのが、今は幸福だと思います。

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