[ ライフスタイル ]という言葉

 なんだか物凄くありふれた物言いになってしまいがちなカタカナ語。
 僕は中でも「ライフスタイル」という言葉が最近は気に入っています。

 Lifestyle、分解すればLifeとStyleという言葉で成り立っている言葉で、端的に言うのであれば、「生き方」そのものを表す言葉です。
 単純な生活ルーチンやファッションセンスなどを言う言葉のイメージがありますが、実際的にはその生活ルーチンやファッションセンスを作る骨格部分を指す言葉な訳です。

 表層的に現れる趣味や行動は、内にある指針に基づいて決定されます。
 自分が思う所謂自分らしさを形作る部分、それが「自分という生き方への姿勢」、つまりライフスタイルだと思うのです。
 
 Dustcellさんの歌を聴いていてふと思うのは、共通して多様なライフスタイルを歌っているのだなぁ、という事。
 極端なことを言えば、麻薬に手を出して地獄に落ちた事を歌った歌であっても、主人公はその生き方を選んでいるのです。
 己で選んだ結果として、客観としては身を滅ぼしていたとしても、主観としては幸福に浸れていたかもしれません。
 
 人間、自分に対しては客観視しようとしても必ず主観的な部分が混じります。
 その客観と主観の曖昧な境界線が表層的に現れるのがライフスタイルだと思うのです。
  客観に於いて「自分ならこうするだろう」という部分と、主観に於ける「自分はこうありたい」という願望のせめぎ合いで生まれる「ゆらぎ」みたいなものがそう。
 その客観と主観の要素は人によって異なりますし、判断基準も一定ではありません。
 だから人によって違いが出ます。
 だから人によって生き方(=ライフスタイル)が違うのだと。
 
 様々な生き方がある中で、僕はやっぱり挑み続けている人のあり方を見るのが好きです。
 それに、誰かからの影響を積極的にプラスに捉え自分をアップグレードしようとする姿が好きです。
 
 2月23日の雨森小夜さんの配信と歌ってみた動画をみて、センチメンタルにもふと思った事ではあります。
 
 久遠千歳さんと過ごした決して長くはない時間が雨森さんにもたらした影響。
 その影響を元に変化する考え方や表現方法。
 そして本人はいなくなったとしても、その影響を受けた人の心の中で、その人のイメージする影響をもたらした人は生き続けているんだよな、と。
 それでも今までと違うのは、もう待たせてはくれないんだという事実なのですが。
 それでも久遠千歳さんという人格は雨森小夜さんという人物に相互に影響を与え合ったし、それを快と思ったのだと思いたいです。
 そして久遠さんの存在は少ない数の視聴者の心に影響を与えています。
 与え続けています。
  久遠千歳という人格が失われたとしても、その人格の根底となる人物はきっと、またなにかをしてくれる事でしょうから。
 だからきっとこういう他ないのだと思います。

「まだ死ねるなんて思うなよ」
 と。
 意地悪かもしれないですが。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?