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記憶と記録

歳を重ねるにつれ、その分"過去"が増えていく。

今置かれている辛い現状や、不安の大きい未来のことを考えると、「こんな人生のまま俺は死んでいくのか」と思うことがある。しかし、過去を振り返ってみると「意外といい人生だったのかも」と思うこともある。

歳を重ねたといっても、人生の終わりがすぐにやってくるわけではない。今までの人生を振り返るにはまだ早いと思う。ただ、"記憶を辿る"ことは意外に楽しい。思い出を振り返るのとはまた少し違う。たとえば、布団に入ってなかなか寝付けないとき、小学生当時の地元駅の光景を思い浮かべる。駅から家までの道のりを、当時の街並みを思い浮かべながら歩いてみる。そんなどうでもいい作業が楽しいのだ。写真も動画も残っていないが、記憶だけでいろいろなものが甦る。

今は、いつでも"その瞬間"をスマホのカメラで記録することができる。記憶ではなく記録だ。自分も例に漏れずパシャパシャとスマホカメラで撮影しまくっていた時期があった。そしてSNSの時代が到来し、"共有"という名の自慢合戦が始まった。

24枚撮りフィルムで写真を撮っていたころは、「この情景を、この瞬間を写真に残したい」と感じたときにシャッターを切っていた。出先での被写体は、行動の先で偶然出会うものだった。しかし今はその逆で、写真を撮るために行動している人が多いように思う。

一枚一枚は素敵な写真なのだが、その写真と写真の行間のようなもの、リアルタイムの体験が希薄になってはいないだろうか。素晴らしい風景、美しい料理、それらに出会って写真を撮ることと、写真を撮ることが目的になってしまっているのとでは、残る"記憶"の熱量が違うように思う。

自分の経験にもある。仲間と楽しいホムパを開く。みんなで写真を撮りまくり、出てくる料理をその都度撮影し、手土産マウントで集まった品物を撮影し、「楽しかったね」と言ってはみるのだが、実のところ、写真を撮ることに夢中になっていて友人と何を話したのか、写真に映っている料理がどんな味だったのか、そういうことがあまり記憶に残っていない。

デートのときもそうだ。かつては、二人で一緒にいるときの温度感、何気なく放たれたひとこと、そのひとことを受け取ったときの気持ちまで記憶に焼き付いていた。写真を撮ることに夢中になってしまうと、頭の中がそれでいっぱいになってしまい、後から写真を見て「あぁ、あそこに行ったな」という事実が残っているだけで、その時の思いが何も残っていない。

少し例えは悪いが、ワンナイトの相手とのエッチ。本来、いちいち思い出にすることではないが、そこでスマホを手にする人は少ないだろう。だからというわけではないけれど、その場の空気感、どうでもいい会話、そんなことまで覚えている人はいないだろうか。そこに記録は必要なく記憶だけが残るのだ。思い出しオナニーをしている人は少なくないだろう。(いや、やっぱり例えが悪いな)

「写真映えする料理を頼みたい」「どのタイミングで、どういう構図で集合写真を撮ろうか」、それが悪いとは言わないのだが、少なくとも自分はそこから脱却した。

記録と記憶のバランスを取って、自分の記憶を大切にしたい。「あそこに行った」「あんな料理を食べた」「あんな連中とつるんでた」という事実の羅列だけではなく、そこで感じたものをしっかりと残しておきたい。

死ぬときにいろんなことを思い出して、それほど不幸ではなかったと思いたい。

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