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平成の終わり、令和のはじまり

平成17年春、はじめてのひとり暮らし。はじめての東京。

会社の寮(とは言っても借り上げマンションなので、普通に一人一室のマンション)に入り、同じように地方から上京した同期たちと仲良く遊び、仕事の忙しさに揉まれ、恋愛やセクシャリティのことなんて忘れてしまうくらいの慌ただしい日々が始まった。

週末の度に、東京のいろんな街に出かけた。
渋谷のタワーレコード。新宿のアルタ前。下北沢のライブハウス。
ニュースでしか見たことがなかった光景の数々に、完全におのぼりさん状態で目が釘付けだった。
「こんなに沢山の人がいて、こんなに沢山の物が溢れている東京で、
 何も成し遂げられなかったらそれまでの人間なんだろう。」
そんな想いもあり、ただがむしゃらに仕事も遊びも頑張った。
平日は遅くまで仕事して、同期と飲みに行って、週末はライブハウスに通って。上京して3〜4年くらいは、ゲイとしての活動はほとんどしていなかったんじゃないかと思う。それくらい仕事も遊びも充実していた。

社会人生活にも慣れてきて、少しずつ時間的にも経済的にも余裕が出てきた頃に、少しずつゲイとしての活動も再開していった。とは言ってもまだゲイの出会いアプリが出る前の頃で、相変わらず掲示板で知り合った人と実際に会うくらい。お茶だけのこともあったし、セックスをすることもあったけど、一回会ってそれきりといったことが多く、長続きすることは滅多になかった。共通の友達も趣味も無く話が続かない。どうやって距離を縮めていいか分からなかった。
勇気を出して新宿二丁目を歩いてみたり、誰も知り合いの居ない出会い系ナイトに行ってみたこともある。けれでもやはり馴染めなかった。
同じ様なルックスで、同じ様な服を着て、ゴシップが好きで、DIVAとオネハが好きで、二丁目ではホゲ散らかして。そんな分かりやすいゲイの世界を謳歌する人たちは、まるで自分とは違う世界に住んでいる人々に見えた。
「田舎だから出会いが無いなんて言い訳は、もうできない。」
そんな覚悟で東京に来たはずなのに、二丁目の中でも自分の居場所は見つけられなかった。
マイノリティの中のマジョリティに馴染めない自分。
それは典型的な同族嫌悪だったように思う。
「あんな絵に描いたようなゲイに、自分はなりたくない」という反骨精神から、更にサブカルをこじらせ、「趣味が合う人じゃないと好きになれない」と、ただでさえ狭い世界の出会いを自らフィルターして、自分の世界に閉じこもってしまっていた。

iPhoneが爆発的に普及し、GrindrやJack'dといったゲイ向けの出会い系アプリが出てきた後も、結局それは変わらなかった。もともとモテるようなルックスでもないのでアプローチされることもなく、趣味が合うようなタイプの人もなかなか見つけらない。
そんな僕を救ってくれたのも、やっぱりSNSだった。
mixi時代からの趣味が合いそうな友達と、やっと東京で実際に会って仲良くなることができたり、mixiが廃れてTwitterに多くの人が流れた後も、Twitter上で何となくその人のキャラクターや共通の友人や話題を把握してから実際に会うことで、不思議と話が弾むようになった。SNSのおかげで、はじめての人との距離を詰めたり、能動的にこちらからコミュニケーションを取らなくても、緩く繋がりを保つことができた。

もうひとつ、自分を救ってくれた物がある。
当時、二丁目にとあるゲイバーがあった。
自分と同じように二丁目の空気に馴染めない人達が集まる、少し風変わりなお店。カラオケも無く、オネエ言葉を使う店子も客もおらず、代わりになぜか爆音でロックが流れるお店。
友達にそのお店に連れて行ってもらって、そこから一気に世界が広がったように思う。当たり前だけれども、ゲイの中にも多様性があって、ステレオタイプなゲイばかりではないこと。様々な個性や価値観を持った人たちがいるということ。そんなことに改めて気付かされた。
諸事情でそのお店は今はもう当時のような雰囲気ではなくなってしまったけれど、そこで当時出会った人たちやSNSを取っ掛かりに、少しずつゲイの交友関係を気付くことができた。音楽の趣味がきっかけで二丁目でDJをやらせてもらうことになったり、ゲイの友達とホームパーティーをしたり、昔の自分からは考えられない出来事が増えていった。
相変わらず彼氏はできなかったけれど、やっとゲイとしての人生に光明が差してきたように感じたのは、20代も終わりにさしかかった頃だった。

2011年3月の頭、ゲイの友達を家に呼んで、自分と友達の合同誕生日会をした。大家に怒られるくらい馬鹿騒ぎして大笑いして、本当に楽しかった。
ちょっと時間はかかったけれど、なんとか東京でゲイとしての居場所を見つけて、やっていけそうな気がした。
その数日後、東日本大震災が日本を襲った。


2011年3月11日。
29歳になったばかりの僕は、まだ1社目の某SIerでSEとして働いていた。
金曜の午後、今まで経験したことがないくらいの強くて長い揺れが起き、「これはただごとじゃない」と、会社のテレビでニュースをつけた。
そこには現実とは思えないような凄惨な光景が映されていた。
畑をどんどん飲み込んで遡上する津波。
津波に巻き込まれていく車、家屋。
都内でもほとんどの電車が停まり、帰宅難民が溢れた。自分も漏れなくそのうちの一人となり、その日はオフィスで朝まで過ごすことになった。鳴り止まない緊急地震速報、原発のニュース、更に新潟で起きた大きな地震。
いったいこの国はどうなってしまうんだろうという不安に押し潰されそうになり、ほぼ一睡もできずに朝を迎えて家に帰った。近くのスーパーやコンビニの陳列棚は、近隣住民の買い溜めのせいですっからかんになっていた。
Twitterで、普段はお互いにそっけない態度のカップルが「家に帰って彼氏の顔を見たら、ほっとして泣いてしまった」といったツイートをしているのを何組か見かけ、とても羨ましく思うと同時に、一人で生きていく心細さを痛感した。

それからは混沌とした日々が続いた。
輪番停電、余震、Twitterのデマ、原発、自粛ムード。
目と耳を覆いたくなるような状況に、胃がキリキリと痛み、先の見えぬ不安に体が震える。そんな中でも、仕事は容赦なく続く。
この頃が一番の激務で、100時間以上の残業が半年近く続いたこともあった。仕事のストレスと震災のストレスが重なって、徐々に体に不調をきたすようになる。
電車に乗っていると、発作的にえづいて吐きそうになる。数駅進んでは降りて、ホーム脇でえづいて、また電車に乗る。自由にトイレに吐きに行けない空間だと、その不安から余計に発作が出やすくなる。映画館、ライブハウス、それまで楽しみだった空間が、恐怖の空間に変わってしまった。
いろいろ医者を回って診察してもらって、最終的に心療内科で「軽度の適応障害」と診断され、抗不安剤を処方されるようになった。薬のおかげでなんとか仕事も続けられ、少しずつ元の日常生活を送れるようになってきた。

震災の混乱も収まってきた2011年の秋、ひょんなことから今の彼氏と出会う。
共通の友達を通じて、お互いのイベントを観に行って知り合った。
20歳のろくでもない恋愛から9年ぶりの彼氏。
考えてみると、これがはじめてまともに続いた恋愛だった。今も関係は続いていて、付き合い始めてから7年、一緒に暮らして6年になる。
「運命」なんて便利な言葉で片付けたくないけど、自分が好きなった人がこんな自分のことを好きになってくれるなんて、運命としか思えなかった。
こんな狭い世界で見つけてくれてありがとう。


2019年、平成最後の年。
将来に希望を持てなかった20代の頃に比べて、見違えるほど充実した日々を送っている。体力は少し衰えを感じるけれど、気力はまだまだみなぎっている。
激務だった会社も転職し、水を得た魚のように活き活きと働けるようになり、社会人としてのキャリアと軸は築けたように思う。メンタルの不調も、完全には治っていないものの、随分と回復した。
やはり仕事を安定させることが、何よりも心の安定に繋がったように思う。仕事を通じて社会から承認され自己肯定感を得ること。それによって待遇も良くなり、生活基盤も安定すること。そのポジティブな連鎖に救われた。

ゲイの友達も、昔に比べて随分と増えた。
週末の度に大勢のゲイ友と集まってどこかに行ったり、毎週のように二丁目ではっちゃけたり、そんなキラキラしたゲイには相変わらず成れないし成る気もないけれど、遊びたい時に遊びに誘ったり、飲みたいと思ってたら飲みに誘ってくれたり、一緒にライブやフェスに行ったり、寄り添ってくれる人がいる。決して友達は多い方でないけど、そうやって会いたい時に会える友達がいるだけで十分だなと思う。
面白そうなことに自分から足を突っ込んでいけば、新しい出会いや経験が待っているということ。自分の世界に引き篭もっていても、出会いなんて生まれないということ。そんなシンプルなことにもっと早く気づいていれば、あんなに枯れた20代を過ごさなくて済んだのかもしれないと思うけれど、それももう後の祭りなので後悔しても仕方ない。出遅れた分は、これから楽しめばいい。

2019年4月、友達に誘われて平成最後のTokyo Rainbow Prideのパレードを観に行った。
友達が参加者としてパレードを歩いていたり、身近な企業が沢山スポンサーとして参加していたり、イベントの規模も社会からの注目度も段違いに大きくなっていることを実感した。
「もしかしたらいつか、自分もパレードに参加する側に回っているかも」
そんなことを考えてしまうくらい、身近な物に感じた。
ステージでは多くの有名なアーティストがダイバーシティについて語り、りゅうちぇるの言葉に涙する若い子たちもいた。
10年近く前にパレードを観に行ったときは、もっと規模も小さくこじんまりとしていて、知り合いもいなくて所在無く直ぐに帰ってしまったし、大々的にパレードを歩いているオープンな人たちと自分は相容れない人生なんだろうなと思っていた。
その時に比べると、自分の考え方も社会も大きく変わったことに気付く。
あの頃モノクロに見えていた世界が色彩を帯びて、虹色に彩られた渋谷の街がとても眩しかった。
「この世界に、自分以外にゲイなんているんだろうか」と孤独の中で苦しんでいた10代の頃の自分に、この美しい景色を見せてあげれたら、どんなに救われたことだろうか。

平成最後の日、ゲイの友達に誘われて大勢で食事をして、近くのゲイバーでワイワイガヤガヤ楽しみながらみんなでカウントダウンして令和を迎えた。初めて合う人だらけだったけど、とても楽しい夜だった。
家に帰ってきて、僕も彼氏も飲みすぎたせいか二人で吐きまくって、惨めな令和のはじまりだったけど、こんな日のことは一生忘れないだろうし、これからも二人でこうやって暮らしていくんだろうなと思うと、とても愛おしい瞬間に感じた。


令和元年、36歳。
次に元号が変わるのは何年後で、何歳になっているんだろうか。どんな生活を送ってるんだろうか。まったく想像もつかない。
それでも僕は、大切な青春と出会いの詰まった「平成」が、最も想い入れの強い元号として、これからも胸の中に残っていくんだろうと思う。
令和になって一ヶ月が過ぎようとしているけれど、令和の実感はまだ無い。

こうやって平成と共に自分の半生を綴りながら振り返ることができて、本当に良い機会になりました。機会をくださった方々と、こんな拙い文章を最後まで読んでくださった方々に、深く感謝の意を表します。
5月にしては暑すぎる初夏のような日々の中で、つれづれと。

つれづれつづり第一弾「平成」
〜完〜


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