見出し画像

宝塚とは何か

ぬけぬけと愛と夢と希望を謳うところ。見てるこっちがこっ恥ずかしくなるぐらい、見方によっちゃあダサいぐらい一生懸命な人の集まり。ライトがあたらない人ですら、その息吹を舞台の隅々から感じる場所。歌も踊りも芝居も半素人だけど、未完成の芸をさらけ出して比べられて、あきらめない人が集っている。そして生徒のために演出家がいて、演出家のための俳優がいない世界に一つだけの学校。



1.宝塚の役割

 宝塚以外の劇団では、まず作品ありき、演出家ありきだ。その世界観に必要な俳優、またはネームバリューがあり、客を呼べる俳優が呼ばれる。そのどちらもない人は必要ないし、一から育てる余裕も義理もない。しかし誰だって初めは無限の可能性に満ちた初心者であり、その初心者を一人前にするところが本来は必要なのだ。宝塚は女性舞台人の学校としてその役目を果たしている。未完成の原石を長期スパンで育てていくことができる潤沢な資金と余裕を持った稀有な場所だ。人の成長にかかる時間は各々違うのだから、長く見れるに越したことはない。

 そして、ツテも金もなく、しかし芸事の才能のある人が、才能があるという事実だけを武器に戦える可能性を残した場所だ。芸能事務所もスカウトはしている。しかしそれは目に見える部分のみで判断されている。容姿が一万人に一人の美貌でなくとも、芝居や歌や踊りの才能はあるかもしれない。主役でなくとも脇役で活きる人かもしれない。宝塚では金コネが叩かれることもあるが、芸事の世界はそれがあって当然だ。いくら積めるかでライトが当たるかどうかが決まる。宝塚は特に潰しのきかない世界であり、金コネも才能があるかどうかもわからない人をいれると気の毒なことになる。だからこそ、小林一三先生は良家の子女をいれることを推したはずだ。才能ある一握りの人間のために人生をふいにすることなく、やり直せるだけのバックアップができる親がついている子を選んでやりたいというのは非常に親心に満ちた考え方だと思う。また、子に対してたかりゆすりをするような親がいないことはブランドイメージを作るうえでも重要だ。

 そこで、宝塚にいる人は、①金コネ+一定の容姿②金コネ+芸事の才能③金コネなし+芸事の才能or美貌のどれかに分類される。①のタイプは周りと比べてよっぽど力のある金コネでない限り、淘汰されていくはずだ。肝心なのは、③のタイプが己の才能を武器にファンから人気を集めることで、戦っていけるということだ。彼女たちがどこかの劇団に入ったものの売れない生活を何十年も続け、日の目を見ずに終わってしまう、あるいはどこかで才能をあきらめてしまう可能性は宝塚で成功する可能性よりはるかに高い。彼女たちが若く、夢と希望を持っているうちに活躍の場を与えることができるのは宝塚の大きな功績だ。

 芸の何たるかを学び、自分の実力と向き合い、実践経験を積み、熾烈な競争に参加し、さらなる挑戦に臨む。宝塚の美しさは学び続ける人の美しさであり、自分を至らなさを知ってなお高みを目指せる人の美しさだ。彼女たちの多くが裕福な良家に生まれ、自分と向き合わずとも、世間にもまれることもなく気づかぬうちに周囲に守られて平穏に人生を生きていけた人たちだろう。にもかかわらず、自分の人より劣っている部分を声高に突きつけられ、自分の甘さ弱さを知り、自分に勝つまであきらめないことを求められる職業にあこがれと共に就いている。そのこと自体に私は驚嘆する。宝塚を通さなければ決して見ることのできなかった様々な才能を目にすることができている幸せをかみしめてしまう。宝塚最大の役割は、宝塚にしか見出し、育てることのできない才能を発掘することだ。

 また、女性的な女性でなく、男性的な女性が活躍できる場としても実は大きな役割がある。宝塚は高身長で、しっかりした目鼻立ち、低い声、男性を食ってしまうほどの覇気、それらが価値をもって評価される珍しい場所だ。宝塚を退団すると、基本的には女性を演じることでしか活躍の場は与えられない。そのため、男役は可能な限り早期に女性らしい所作を身に着け、舞台に復帰しようとする。もともとの体格、顔立ち、声などの素質が男性らしい女性ほどその性転換に苦労する。しかし、これはかえって不自然である。彼女たちが彼女たちらしい素質を持ったままで、それを生かして活躍できる場があればせっかく培ってきた芸を披露する機会を得られるはずだ。映画オーシャンズ8の詐欺師を演じたのはオークワフィナだったが、彼女は非常に声が低い。しかし、そのことは役を演じるうえで個性として役立つことこそあれ、不自然なことでは全くなかった。

 女性にもいろんな女性がいる。小柄で、ロングヘア、スカートを好み、高い声で話すだけが女性の表現ではない。そうした好みの女性もいれば、ショートカットでスウェットとスニーカー、ジーンズを愛し、町を闊歩する高身長の女性もいる。もちろん、女性はその二択のタイプしかいないわけではなく、グラデーションでもあり、もっといろんな軸で比べることも可能だ。しかしどうしてそういった多様な女性が舞台上にいないのだろうか。いたとしても、ヒロイン的な見た目をもつ女性しか主役を張れないのはどうしてだろうか。男性を上回る仕事上の能力をもち、包容力をもって男性を守れる女性が登場しないのはなぜだろうか。フィクションは世相を表す。ドラマに負けない、今を映し出せる新しい舞台を作ってほしい。多様な女性が宝塚退団後も舞台の上で輝ける場所を作っていってほしいと、その先陣を切れるのは役者にもスタッフにも人材のそろった宝塚ではないかと思っている。

2.宝塚の実力

 最近、宝塚において実力主義が台頭してきている。上から目線でいわせてもらえば、大いに結構。何を表現するにしても実力があるに越したことはない。しかし私は、宝塚は半素人でもかまわないと思っている。なぜなら、宝塚は成長の過程を見守る学校であり、そもそもが男役、娘役という独自の表現の上に成り立った実力だからだ。男役芸、娘役芸、その砂の城の上にある実力である。彼女たちは虚構の上に虚構を築いている。芝居は特に、土台が崩れれば、実力と見えたものが存在しないこともあり、過信しない方がいい。宝塚の芝居の質は軽いし、そうでなければ、あの世界は成り立たないだろう。単純に考えて、外部の芝居とは求められているリアリティの種類が違う。もちろん、望海風斗さん、真彩希帆さんのような外部で通用しうる実力を持っている人もいる。その価値を低く見積もるわけでは決してない。それとは逆に、では、高い実力のない人の歌、踊り、芝居には価値がないのかを聞きたいのだ。
 

 私は、表現したいビジョンの見えている人の芸事は、今現在下手でも価値があると思う。たいていのジェンヌは歌や踊り、芝居のうちどれか一つ、二つが好きで宝塚に入っており、別に何の興味もなくともしなければならないためにしていることもあるはずだ。にもかかわらず、男役、娘役としての自分をどう打ち出していくかの青写真を描き、それに必要なことがわかっており、興味のないことに対して、あるいは苦痛なことに対しても努力を続けられる人は本当に素晴らしい。プロなんだから当たり前だというのもわからんでもない。しかし、私は自分の仕事が例えば広報の会社員だとして、先輩や営業先との毎日の飲み会といった苦痛なことに、あるいは毎日延々とコピーをとるなどの退屈なことに精を出せるかというと出せない人なので、仕事だからなんでも頑張れるかというと、違うと思う。私はその人が努力を続けられるために、成長を見せてもらうためにお金を払いたい。

 もちろん、描いたビジョンにふさわしい実力をもって表現しきれる人を見る喜びもある。だがたいてい、それが完成してしまうと退団近しとなるので、寂しさも同時にやってくる。かえって完成形の片鱗が見えるけれども、技術的に、または本来の素質的に一歩及ばずという人の芸事は見ていて本当にワクワクする。「獅子の子と猫を見間違える失態をおかしてはいけない。(意訳)」というのは銀河英雄伝説にあったセリフだが、いつか望海風斗さんのように目指してきたものにたどり着く日が来るのを待つことができる喜びがある。

 それにひきかえ、はじめから今ある実力の限りでしか、表現しようとしていない人はつまらない。ほどほどの実力に満足し、自分にしかできないことにチャレンジせず、失敗しないように小さくまとまる人が苦手である。これぐらいできれば満足するだろうとなめられている、馬鹿にされていると感じるからだ。私はいつだって、自分を超えようとしている人を見るのが好きだ。それが結果に出ているかどうかは別として、自分から努力を語るかどうかとは別として、好きなのだ。派手に失敗してもいい。迷走してもいい。宝塚は学校であり、観客は生徒の成長に勝手に期待し、失望する権利をお金で買っているのだ。これからも余裕をもって、宝塚の実力を見守っていきたい。余談だが、私は贔屓に対して実力は一切問わず、ただ現実を分量通り受け止めつつ、存在を全肯定していく所存なので仁義の違うお方の口出しは無用です。

3.結論
 人間を幾重にもわたる虚構と虚像でろ過して、最後に残る感情は何だろうって見てみたら、愛と夢と希望が残っていました。宝塚はそんなおとぎ話を現実にしてくれる劇団。そこには清く正しく美しいものの価値を知り、理解し、信じている人が集っています。

宝塚よ、永遠なれ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?