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明日はクモ膜下記念日

明日1月29日は、自分のクモ膜下記念日なのだ。自宅で発症してちょうど3年になる。過労、睡眠不足にヒートショックの3拍子揃って、深夜に帰宅し今に座ったとたんに、後頭部に、幅の広いゴムを後ろからグィーンと引っ張られ、何度も何度もバチンとはじかれた。その痛さときたら、生まれて初めて体験するものだった。死んでしまえば、生まれて最初で最後の痛みになる。バチン!バチン!我慢しても、その痛みは収まらない。救急車を呼ぶにも軽く1時間、市内の病院まで軽く1時間…それでも呼ぶべきだと思うのだが、怖いもの知らずの僕は、もう少し様子を見ようと、こたつの中で横になったのだ。寒くてたまらない…眠りに落ちそうになると、寒さで目が覚める。こたつの布団を引き上げまた体を丸くする。こたつのテーブルの上を、オヤジなんか変だと、猫どもが飛び跳ね騒ぐ。早朝、漁船が出港するエンジンの音で目が覚める。首の後ろがジンジン痛い。仕事に行かなければと思い、首の後ろにホカロンを当てて車に乗る。まぁ、何とかなる、昨日の夜の頭の痛みは何だったのか?今日は何にしても熊本市内の脳外科に行かなければ、何かへんだぞ。とにかく1時間のガマン、土曜だし、車はすいている。とにかく1時間、頑張ればなんとかなると、頭をふらふらさせながら海沿いの国道を走る。あと30分…どうも頭が重い、重い…船酔いしたみたいだ。車を路肩に停め、座席を倒す。あと少し、あと少し…船酔いは治らない…体を起こしたとたん、噴水のようにハンドルに、向かい嘔吐する。二度目はゴミ箱の中…それでも、自分で病院に行かなければと思いエンジンをかける。体を斜めにしながら、ハンドルにしがみつき今度は川沿いの抜け道を走る…ようやく脳外科に着き、窓口に保険証を出した。

全身麻酔、口には透明の呼吸器が付けられ、僕の右上の額、頭蓋骨には小さな穴があけられ、破れた動脈に3個、チタン製のクリップが挟まれ9時間かかり、僕は目が覚めた。それから数日、ものすごい疼痛に夜も眠れない。座薬を何度も入れてもらい、痛みが治まるのもつかのま、体全体に疼痛が走る。壁掛けの時計の秒針は停まったままのように、時間が動かない…クモ膜下の手術後、2週間は絶対安静、運が悪ければ脳の血管が痙攣、収縮を起こし、その原因で重度の麻痺、障害が残るのだ。いつ死んでもおかしくない病室は2部屋あり、先客は女性でもう落ち着いたのかラジオの声がして、夫らしき人が見舞いに来ていた。脳外科には昼も夜もない。救急車の音が響くと、脳梗塞などで倒れた老人が運び込まれ、ガチャガチャした金属音が響き、患者の叫び声、うなり声が、フロア全体に響く。いつ死んでもおかしくない僕の部屋の入り口には、丸顔のとぼけた爺さんが座り、看護婦の言うことも聞かず、僕のことをじっと眺めていた。何度止められても、僕に関心があるようだった。「これ以上、覗いたらダメ!この部屋の人はいつ死んでもおかしくなかとよっ!」と声がする。そんなにストレートに言わなくてもいいのに。夜中にトイレに行こうとたまらず、ナースコールせずに立ち上がると、看護婦が飛んできて「これ以上、いう事を聞かないと死にますよっ!いい加減にしてください、聞いてますか!」あんたの剣幕に死にそうだ、絶望だと言い返したかったが、何しろ怖くて黙り込む。

そんな日々から丸3年。年に2回ほどは、傷跡から小さなギョーザのようなたんこぶが出来て、おそらく髄液もれなのだろうが、何度CT撮っても原因不明と言われる。そんなギョーザでなくてもちょっと気になると、3年経ってもまだ小さな膨らみがあるのだ。

もちろん、生き延びて良かったのだが、一昨日、ふと、61年の人生で「良かったこと何かあったか?」と自問するに「余りなかった」と自答して、何か寂しい気がしてきた。もともと社会に不適合な性格で、無理して笑い、お愛想言うのも疲れたのだ。

嗚呼、一度だけ夢を見て良かったことがある、まだ中学生の頃、僕は船乗りにあこがれていたのだ。旅客船ではなく、貨物船、タンカーなどの荷物を運ぶ船の航海士になり、世界の海を回る夢。当時読んだ、北杜夫の「どくとるまんぼう航海記」の影響もあるのだが、そんな夢を見ている時だけが、楽しいひと時、だったのだ。60歳も過ぎ余生がわずかだけど、改めて思うのだ、あの夢見る頃は楽しかった。自分だけの夢の時間が。

帰りの駅を出ると、小さな港があり、その岸壁には時に貨物船が停泊している。その姿をみるとわくわくするのだ。夢を見ていたあの頃が一番良かった。

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