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クモ膜下、その後

テレビでお笑い芸人の人がクモ膜下になったニュースを見た。僕が発症したのは3年前の1月29日。いやー無理がたたった。その前年の秋は山で遭難。自分みたいな零細企業は頭の線が切れるまで仕事するのが当然じゃいと、仕事していたらその通り、頭の線が切れた。山のガイド本を編集し受け持つ山10座を全部踏破、記事も自分で書く、印刷前になると修正、修正の連続。睡眠不足で、その時の熊本の気温はマイナス5度だった。早く帰るつもりが友人が久しぶりに会社に来て長話、いつものヤマトの集荷に間に会う予定が会社から1時間のヤマトの集荷場に持ち込み、時計を見ると午後10時。それから自宅まで車で2時間近く。腹が減る。帰りに牛丼を山盛り食べて、消化不良のまま帰宅し、リビングに座ったとたん線が切れた。後頭部でバチン、バチンとゴムが弾ける音がする。会話もできないほど。しかし救急車を呼ぶにも遅すぎる。明日の朝まで様子を見よう。何とかなる…。

…ここで、お風呂に入ったり、酒でも飲んで血行を良くしたら死んでいたろう。クモ膜下は約3割の人が死ぬのだ。生き延びた人の半分は重い障害が残る…何しろ脳の中は血だらけだから。僕の脳の血管は3か所破れ、頭を開きクリップでその個所を止められている。それでも頭の中では、本の校正の繰り返し、ああしたら、こうしたら…途中で他のデザインのことを考える。名案が浮かんだ!そうそう、パートのおばちゃんの為に、灯油を買ってあげないと…手術前に、先生、この病気が治るのあとどのくらいかかるんですかね?と聞く。先生曰く「2週間は最低かかります」「それは困る、困ります、仕事が…」先生、怒った口調で「仕事どころじゃないですよ、大変な病気なんだから」

もう痛みは感じない…いろいろなことを考える。数日前パソコンで見た、四国の葬儀屋のコマーシャルを思い出す。なかなか質が高い。死んだばかりの老人が4人、鈍行列車の座席に座り、語り合う。これまでの生を懐かしんで楽しく語りあう4人。汽笛がなると、みんなは一斉に黙りこむ。覚悟したようだ。列車は何時しか水面をなめるように走り、自分の意識も水の上を流れ消えていく。

芸人の方は軽症、手術も不要と事。僕は、都会の賑やかさの中で死ぬのはごめんだ。煩すぎる。死ぬなら、静かに静かに、例えば、森の中のベットに横たわりたい。

しかしさ、まだ死ぬわけにはいかない。我が家の猫ども全員が天寿を全うするまでは。自分が死んだ後、冥途の扉が開くと、猫どもが居ないと寂しいではないか。寛太よ、抱きかかえると、僕の腕を相変わらずガシガシ噛んでおくれ。

もう3年も経ったのか。

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