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「4月になれば彼女は」(その3)

「4月になれば彼女は」(その2)の続き。

熊本から新幹線で東京に向かった。もともと飛行機が大嫌いで、5年前の脳の手術の後遺症で飛行機での気圧変化で頭の中がどうなるか不安だった。1月前にも頭痛がして市内の脳外科でCTを撮り、すでに今年2回目、もうやめとけと医者に言われ、今回、飛行機でおかしくなる具合なら、新幹線で時間をつぶす方がよっぽど安心なのだ。短気の性格で列車を早めに乗り継ぎ、予定よりも1時間早く東京駅に着いたので、山手線の上野駅で降り東京博物館に行った。

晴天の土曜日、パンダは居なかったが、上野公園は多くの親子連れや外人客で賑わっていた。遠くで楽しそうな音楽が聞こえる。コロナ明けでほとんどの人がマスクを外し、笑顔を見せている。Nさんは博物館が大好きで、上野公園の敷地内に博物館や美術館が軒を並べるこのエリアに真剣に引っ越そうと思った事があると語っていた。展示物の僕の一番のお目当ては平成館の縄文土偶だ。入るとすぐ正面に「遮光式土偶」がガラスケースの中で鎮座し細い目をして僕の到着を待ってくれていた。何枚も何枚もシャッターを切る。奥のフロアーは歩みを進めるにつれ時の流れに沿う形で縄文から弥生と、発掘された銅鐸や、埴輪らがずらりと並んでいた。

たっぷり3時間、彼らを眺め博物館を出て赤坂見附のカプセルホテルに泊まった。2段ベットタイプの寝室が50部屋。ブラインドを下げて無音の空間に体を横たえる。地震が起き生き埋めになれば僕らの遺体はコンクリートや張りぼてのベニヤ板に挟まれ腐乱した後、するめのように干からびるのだろう。そして数千年も時間が経てば、カプセルに棲む哀れな生き物の標本として発掘されるのだろうか。どこでもある標本なので、話題にもならないのか。

次の日曜日。丸ちゃんと待ち合わせた駅はJR市ヶ谷駅だった。地下鉄の駅は長い通路が上下に重なり、交差し、蟻の巣穴のように結びついている。その長くて固い道路を、みんなは荷物を背負い、子供の手を引き、列になり歩き続ける。列を乱さず、実直に蟻が荷物を運ぶように。ホームに着くと、列車が走り込んできて、奥の洞窟からの生暖かい空気を押し出す。その生暖かい空気は誰かが吐いたため息とも思え、僕はそれを吸わないように気を付けマスクを鼻に上げた。腰の関節が悪く両足が丸くたわんできた丸ちゃんはそんな通路を、杖を突きながら僕よりも速くすたすた歩くのだ。ホームの奥で、誰かが突然倒れたと連絡があり、駅員が数人、ホームの階段を走り降りて行った。蟻の行列はひととき乱れたが、しばらくするとまた元の長い、長い行列に戻った。

地下鉄に乗り、曙橋駅を出て徒歩数分。Nさんの住んでいたマンションがあった。玄関を入ると、部屋には彼女の持ち物の荷造りの最中だった。岐阜からお姉さんが遺品の整理にやって来ていた。抗がん剤の治療を終え、緩和ケアが決まり、5月22日に自宅に帰ったNさん。肺に癌が転移し、息を吐くのも吸うのも苦しいと丸ちゃんに語っていた。彼女が亡くなったのは翌日の23日。僕はその週の土日にお見舞いに行くかどうか迷っていた。コロナの感染の危惧もあり、抗がん剤の治療で体の免疫力が弱った人に会いに行くのも、行かぬのも、判断がつかなかった。ただ会いに行く、会えても会えなくても会いに行く、それが自分なりの結論で、つまり予定通りだった。本人が居なくなっただけで。

他人の死についても、どう思うかは自分の思う通り。生き延びた人の自己満足で良いではないか。亡くなった人になんの迷惑もなかろう。

彼女の部屋はリフォームされ、部屋の壁が取り払われ、広い一つの部屋になり、壁には一面びっしり本が並べられていた。20年前に亡くなった旦那さんの本がほとんどらしい。開け放たれた広い窓からは、いい風が吹いていた。広いベランダにはたくさんの植物が置かれ、緑の葉を広げていた。僕は熊本の山寺から手に入れた悪霊払いのお札、お守りをバックから取り出し、お姉さんに言づけた。何も役に立たなかったお札だが、悪魔が踊るような、このお札のデザインを彼女は喜んでくれたのかもしれない。

荷造りを少し手伝った後、昼過ぎに僕らは彼女の家を出た。道沿いに駅まで帰る途中、おしゃれな菓子屋の喫茶スペースで丸ちゃんと話をする。彼はコーヒーをすすりながら一気に話続けた。「田舎から東京に出て来た奴らは、孤独なんだな」と柄にもないことを言う。「俺はさ、これまでたくさんの友人を看取ったわけ。みんな田舎から東京に出て来た奴等ばっかりなんだが、みんな寂しいんだよな」彼も田舎の滋賀を捨て東京に出て来て40年経ち、娘が二人。根なし草の彼にも根が生え始めたのだろう。東京でいくら新しい友人が出来ても「あの頃の友人達としか気持ちが通じない時がある」とも言う。根なし草同志、共通の言語感覚があるのだろうか。僕は彼女の部屋の窓から吹いてきた、やさしい風を思い出した。

違うグループのK氏らは落ち着いたら、Nさんを偲ぶ会を開くかもしれないと連絡があった。そんなことしたら本人が照れくさいに違いない。みんなで集まって何を話す?もちろん僕はそんな会には参加しない。これから残った奴等でたまに会い、たまに彼女の事を思い出し、別れる。それでいいだろうと思う。

東京博物館で眠る縄文土偶の事を思い出す。彼女は1万年前に死者とともに埋葬された。青森県の遺跡に眠っていたのを発掘されたのだ。博物館全部が死者の館なのだ。そうしてカプセルホテルの暗がりで彼女らの事を想うと、なんとか土偶たちをふるさと青森の土の中に還してあげることは出来ないのかと思う。彼女の右足は欠損している。おそらく祈りの儀式の一つのしきたりなのだろう。彼女の役割はどこにも行かず、森の精に寄り添い、土に埋まったままで祈る事なのだ。それを何と可哀そうな事をするのか、無理に腰に輪っかを付けて立ったままにさせておいて。そう思うと喜々として写真を撮った自分を恥ずかしく思う。上野動物園の動物たちも故郷のジャングルへ還してあげることは出来ないものか。動物たちも東京に出てきて、帰るところのない根なし草なのか。

生きることから解放される方法は死しかないのだな。彼女の遺書には、癌と判明してから、来る日も来る日も死ぬことばかり考えていたと書かれてある。いや、癌になる前から、長い間、彼女は毎日毎日死ぬ事ばかりを考えていた。死ぬきっかけが癌になっただけなのだ。僕は長い間、そんな彼女とネットを通して交信していた。彼女は映画通で、僕の知らない映画をたくさん教えてくれた。「父帰る」(2003年)というロシア映画もそうだった。

彼女の部屋を出るとき、玄関前のテーブルの上に置かれた飾りのようなものを見つけた。荷造りの手伝いに来ていたNさんの親しい友人、ナオさんが気付き「それ、彼女が気に入っていた、エジプト土産の“スカラベ”ですよ~。そうそう、遺品にもらったらどうですか?」と言った。よく見ると、パソコンで使う小さなマウスのようだ。色はこげ茶色。手の平にすっぽり入るが石で出来ていて、スッと重い。裏には象形文字で何やら刻んである。スカラベはエジプトで太陽神の化身とも言われ、いろいろな謂れがあるようだけど、僕には大切な遺品となった。

彼女の遺書の最後の一行。「今、私は多幸感に満ち溢れています。そんな私の事をみなさん、どうぞ、祝福してやってください。」

朝、机の上のスカラベに手を乗せ、マウスみたいに、カチと人差し指で左クリックして家を出る。これから残った奴等でたまに会い、たまに君の事を思い出し、別れる。それでいいよね。では、また。

◆「一仏一字 瓦経」平安~鎌倉時代 東京国立博物館 蔵


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