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般若心経、はん「ニャ~」心経 2024

6年前の大病の後、もうすぐ自分も死ぬのか、死ぬかもしれないと思うと、そういう人向けのお経(苦笑)、般若心経を読み漁る事にした。わずか262文字の中に深い意味、世界が込められているそうで、まずは日本での第一人者、中村元教授の岩波の般若心経を買って読んだ。ありがたいことに岩波では文字を大きくした版もある。中村教授の般若心経は単純素朴に心経が訳してあるだけのシンプルな本なのだ。

僕は今、日本石仏協会の会員 (誰でも会員になれます) なのだけど、フェイスブックでも会員の集まりがあって全国各地の会員から、こんな石仏を見ました、発見しましたという情報が提供されている。ただその情報の中にさりげなく紛れ込む、商売目的のじいさんが居る。ひげを生やし、いかにもという感じで人の好い笑顔、自分で彫った石仏を紹介したりして販売している。どうでもいい下手くそな石仏に1体30万の値段を付け、完売とか書いている。このじいさんは石仏協会員に営業したいだけで、金儲け以外何の信仰心もないのだ。他の会員が報告している、草に埋もれた石仏に値段が付いているはずはないではないか。

話は戻すが、巷に出回る、般若心経の解説本も同じ。その著者らも下手な石仏を販売しているじいさんと同じ魂胆なのだ。そう簡単に理解できるわけではない般若心経を「誰にでも分かる」的な見出しで僕のような死後の不安(死んだら不安もありませんが) 病気や悩みを持つ人々に自分の本を売りたいだけなのだ。
その中で、ちょっと気になったのが作家の水上勉氏が書いた般若心経の本で、さすがに大作家の水上氏がそんな本を売って金を儲けようと思ったわけではなく、氏の本は身内に障がいを持った人が居て、その人についての思いを、氏は般若心経をモチーフに綴っただけなのだ。読んでいる途中、水上氏が幼少のころ、般若心経を暗記させられていた時の思い出話の中で、そういう知的な障がいを持った人に般若心経が理解できるのだろうか?という疑問を持った話の下りがあり、僕は考え込み、はたとその本を読むのをやめてしまった。

確かにどんなお経でも、人間の言葉で世界が構築されているわけで、その教えの中身を理解できるのは言葉が理解できる人間しかいない。お経の言葉に救われるのは、言葉の意味が分かる人間だけ。その人間も分かったふりして、さらに人に伝えていくわけなのだ。そういう意味では中村教授の般若心経は、素直にそのまま訳してあり、読む人がその人なりに読めばよいという内容なのだ。結果、いろんな解釈をして心救われたらよいし、高邁な解釈講義を唱えても、そういう人に限って、偉そうにして罰あたりなのだな。本にして営業することは無駄。まず、自分で読んで自分で考えたらよいではないか。ただし今の世の中、宗教、教えを妄信したらよいわけではないけど。

つまりつまり、そもそも犬や猫には言葉の意味も分からないから、彼らは単なる生き物として生きるだけで生の喜びも、死の恐怖も悩みもない、昨日も明日もない。今いるだけ。うちの家には総勢6匹の猫が居て、そのおまけに僕と家人が住まわしてもらっているだけで、エサを彼らに貢ぎ、かれら猫族に支配された世界に生かされている。彼らのために年金暮らし間近の僕は、スマホの中の銀行預金の残高をいつも気にしている。(家猫どころか、近所の住吉神社の地域猫一族4匹にもエサをやらねばならん) 
猫族の虚無の世界に生かされて居る自分。般若心経ならぬ、飯の時間が近づくと彼らの「ニャ~、ニャ~」「ご飯まだかニャ~の、飯ニャ~心経」の声が響く。

色即是空。形があって、形はない。形はないが、形はある。形のない世界をコップの形で空をすくうとコップの形になる。形のない世界を自分の形で空をすくうと自分の形になる。もともとは形のない世界なのだから、実は何もない世界。自分も言葉という形のない、ケムリのような意識の世界に生きているから、意味を見出そうとすればするほど、空しくなる。実際、自分の形はどんなものだろう。そんなことを考えながら、昔のお坊さんはたくさんのお経の文字を刻まれてきたのだろうか。

4月に、溺愛していた猫の寛太が病気で死んだ。名前の由来はよく人を噛むから寛太。心が広く、寛大な性格だから寛太。8年前に天涯孤独の身で我が家の裏玄関の空き地にやってきた。カラスに左目をやられ成人しても左目はむくんで濡れていた。熊本地震の時も、車の中で一緒に避難した。アレルギー性で冬になるといつもくしゃみをしていた。今年の冬もくシャミが続き、部屋中、鼻水だらけだった。いつもより目と目の間が膨らんでいたが、人間で言えば鼻炎が化膿しただけと思い込んでいた。おかしいと気が付き始めたのは突然鼻水に鮮血が混じり始めていた時から。今度はカーテンが血だらけになった。町内の動物病院に連れて行ったが、その医者が経験不足で寛太の病気の判断が手におえずひたすら毎日点滴を打つだけだった。知人の猫友から熊本市内の病院を紹介され、診察を受け急いで深夜MRIを撮った時は手遅れ。鼻腔内に癌ができ、すでにがん細胞は鼻の骨を破り脳に達していた。急いでその日の夜に京都で動物看護士をしている娘が帰ってくる。寛太、寛太、寛太…そんな時でもみんなの兄貴分の寛太はよろよろと他の猫の毛つくろいをし、娘の膝の上に乗る。

次の日、もう助からない診断だが…家で点滴の準備をし、寛太の面倒を見る。寛太は娘の膝の上で窓からいつものように、おぼろげな瞳で窓の外の海を眺めている。寛太の目の前をいつもの漁船が通り、貨物船が汽笛を鳴らす。

夕暮れ、部屋の中も薄暗くなるが、明かりをつけないままにした。午後6時過ぎ、無音の世界。寛太の体に痙攣が始まり体が震え出し、寛太は娘の膝の上で息を引き取った。娘は一晩、布団の中で寛太の冷たい体を泣きながら撫で温めていた。

周りの猫たちは寛太が死んだ翌日、いつものように時を過ごしていた。彼らは寛太が居た毛布の上、箱の中に順番に寝ていた。(一時的にいなくなっただけで、いつか帰ってくると信じているのかもしれない)

色即是空、空即是色。
般ニャ~心経、般ニャ~心経。

ただの石の塊にもっともらしく目を彫り、顔を彫り30万で売るニンゲン。買うニンゲン。宝くじが当たると言いふらし、現金をせしめるのに忙しい神社。その神社を面白、可笑しく持ち上げる熊本のマスコミ。パワースポットだの御朱印だの自分だけのご利益とやらに、我先に列に並ぶニンゲン。どんなお悩みがあるのだろうか。

僕の脳はすでに猫化しているので、ニンゲンのような悩みはありません。
般ニャ~心経、般ニャ~心経。

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