ホロライブの二次創作適性

今回はホロライブの二次創作が盛んになるのかということを考える。

結論から言うと、「ホロライブは日常系の相性が悪く、バトル系の相性が良すぎる」

出オチ感は否めないが、話を進めよう。理由は2つある。「主人公の不在」と「日常のありか」だ。

今回は私が個人的に選んだ、同人界大手の「艦これ」「FGO」「東方」の3つと比較していく。

(コンテンツとしては「デレステ」や「アイマス」と類似しているがそれについては別の機会に話そう)

主人公の不在

主人公の存在は二次創作の作りやすさという点で重要である。

「艦これ」では提督、「FGO」では藤丸立香(ぐだ男とぐだ子)である。彼らは主人公ゆえに、普遍的な特性を持っている。そのため、ファンの好きなように改変が可能となる。

一方「東方」では「博麗霊夢」と「霧雨魔理沙」が主人公を努めている。彼女らは主人公とはいえ、ゲーム内キャラクターの範囲に収まっているので基本的な設定や個別の性格を持っている。(つまり、改変はしにくい)

では、ホロライブはどうだろうか。

ホロライブには明確な主人公は存在せず、立場としては「東方」と同じだろう。ファンが可視化されていれば「艦これ」や「FGO」のようになるのだろうが、そんなキャラクターがいるわけではない。

各ライバーに簡単な設定はある。とはいえ、性格は一ファンの私達が断言できるものではない。解釈を巡る面倒な争いが起きるのは避けられないだろう。

したがって、キャラの適性という観点から言えば、ライバー同士の日常などを描く二次創作は盛んに行われないと推測する。それでも、「アイドル」として男性ファンも多いホロライブならバトル系の需要はあるだろう。

日常のありか

二次創作の漫画などではキャラの日常がよく描かれる。「艦これ」ではストーリーも存在せず、バトルが中心であるためいくらでも創作が可能となる。「FGO」「東方」もストーリーはあるが、原作で戦闘以外の日常が淡々と描かれることはない。(「衛宮さんちの今日のごはん」は別世界線なので省略)

ホロライブにとっての日常、それは日々の配信活動である。

よってホロライブの日常作品が描きたくても、結果的に配信活動をそのまま漫画化するようなことになる。いわゆる創造の余白がない。落書きは常になんでもない余白に描かれるものであり、完成間近のキャンバスの中には描かれないのだ。

そう考えると、やはり日常ではなくバトルを題材とする作品が頻繁に作られるだろう。

薄い本

ここでは、薄い本の需要について語る。

いや、薄い本の需要がないわけないだろ!!!!!!!(個人の感想です)

例の3つの作品も山のように薄い本がある。致した者は数知れず、今も数多くの紳士淑女を魅了している。新規も獲得できるので、一石二鳥である。

しかし、「アイドル」として活動している彼女らが薄い本になるというのはなんとも不思議な感覚である。まぁこれについては深く掘り下げないことにする。

まとめ

二次創作の量はコンテンツのファン層やファン数によっても左右される。設定によって一概に判断できるものではない。短い記事になってしまったが、一ファンの拙い推測なので、ご容赦願いたい。

ぜひ忌憚なき意見を聞かせていただけるとありがたい。以上だ。


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