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ミュージカル、レ・ミゼラブルの、回想。

高校は女子校で、それも良いところのお嬢様が集うような学校だった。
いつだってどこかアウトローを外せないけれど、私も確実に「お嬢様」なわけで、それはそれでひどく滑稽だった、10代後半の頃。
その高校はミュージカル「レ•ミゼラブル」を毎年文化祭で上演する同好会があって、縁あり私も一年間だけ携わっていた。

プロの演技を観たくて、同好会のメンバーは親にもらったお金で帝劇に足を運び、日傘をさして並び手に入れた当日券の立ち見席で観劇に耽り、帰路はその歌唱力を語り合うのだった。
私が感じた違和感は当時とても小さなもので、しかし確かに心に残り。
高校生活は、それで、おしまいだった。

帝劇に再び訪れたのは大学生の頃で、違和感が確信に変わったのもその時だった。
福祉系の大学に進学した私は、なぜだろう「レ・ミゼラブル」を観たくなって、なけなしのアルバイト代、すれたGパンとスニーカーで再びあの劇場にいた。
当日券の立ち見席、優雅な貴婦人たちの座る席の間の階段に腰を下ろし、食い入るように見つめたその劇場は、貧困渦巻く舞台を眺める席いっぱいの富裕層。

ああ、これだ。

これが、私の違和感だったのだ。
レ・ミゼラブルの舞台は、観客も全て総動員し、この構造そのものが「レ・ミゼラブル」だった。
ルックダウンで高らかにガブロッシュが観客へ突きつける叫びに対する、「なんて歌唱力、ブラボー」という観客たちの拍手。
これが、この作品が作られたあの時代から続く、ひどくシュールで醜く捻じれたこの世界そのものなのだと。
すれたGパンとスニーカーで階段に座る私もまた、舞台から見れば「あちら側の人」であり、私はそこに甘んじていることを自覚せざるを得なかった。

その日の帰路はどこか足取りが重く、圧倒的な美しさを誇った舞台の余韻に耽っていた。

時々、あの作品を観たくなる。
だけど、それから、あの舞台に足を運んだことはない。
あの日、擦れたGパンとスニーカーで、食い入るように観たあの日の「レ・ミゼラブル」を上回る慟哭と感動はきっとないとわかるから。
今は日々、ガブロッシュ、君のような子どもたちと出逢いながら、この世界の捻れと対峙している。

舞台には登らない。だけど、S席にも座らない。
いつまでも当日の立ち見席の距離感で、ガブロッシュ、君の手を掴みにいく。


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