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ソーシャルワークについての独り言

ソーシャルワーク(SW)について、時代ごとに定義が異なります。
正直、何をくさいこと言ってるの、と笑われてしまうから言わないんですけど、私はSWは「愛」だと思っている。
今は「スキル」とか、洗練された技術として表現されて、その専門性の担保というか、そういうものが進んでいると思うんですけど、もっと古くには「アート」と表現した時代もあったようで、そういう方が、なんというか、色気があるな、と思うんです。
色気って、人間味、みたいなもんで、なんていうか、混じり気というか、ある意味不要なものなんですよね。…時々悪さもしますしね。
だけど、それがその人の味になっている。

ステンドグラス、ってありますよね。
中世のステンドグラスを再現するのって、今の技術では難しい。
そのステンドグラスの絵を再現することはできる。それはもう、精巧に。
何が再現できないって、ガラスそのものだそうです。
中世の技術では、不純物を完全には取り除けない。ガラス自体にも歪みが出る。どう頑張っても、それが技術の限界。
今は、本当に綺麗な、ガラスが作れます。それを元に、組み合わせると、不純物のない美しいステンドグラスができます。

だけど、並べてみたときに、同じ美しさではない。当たり前ですよね。
不純物が入り混じる、歪みがある、だから光が複雑に入り組んで、朝と夕、美しく教会を彩る、中世の美しさは、現代の美しさでは再現できない「味」がある。
ガラス職人たちも、ガラスの美しさを追求した結果、昔の美しさを喪う。もちろん、今のガラスも本当に美しい。本当に。だけど、違う。
そういうことって、世の中いっぱいあるものだ、と思います。

私は、SWの世界でも同じことがあるんだろうなあと漠として思っていて、そのことにいつだって思い惑う。

なぜなら、ガラスではないからです。
私たちが扱っているのは、人が生きる、ということであり、人間そのものだからです。
精錬されたその先にある人間を、私は心底愛せるのか、というと、もう結論は出ていて。

愛せない。
色気がない。生きているという感覚が持てない。

今、児童福祉は岐路にあるなと思います。
混沌としたやるせない日々の中に、私たちがどうあるか、ということが。
だけど、その道を教えてくれるのはいつだって子どもで。
子どもたちが「この人と対話してみよう」と見つめ返してくれる時は、いつだって、私の中の「不純物」が垣間見えた瞬間だった。

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